<「棋は対話なり」>
しかし、ここで疑問も一つ湧いた。それは将棋の普及活動という理想に反する考えなのではないか、と。普及するということは、裾野が広がるということではないのか。学校での授業や、コンピュータによる普及活動は、裾野を広げ、横に大きく繋がりを広げていくことにならないのか。
この問いに対し、大内九段は、「将棋界の発展について理想像はありませんよ」とあっさりと答えた。コンピュータは導入法としてはいいと思う、普及活動に役立つのであれば大いに結構だと考えていると。それで興味を持ってくれる人が増えれば、越したことはない。
しかし最終的には「読む」という行為なくして、将棋は詰めない。「棋は対話なり」という言葉があるとおり、対面してみてはじめて読めるものもある。実際に将棋盤を挟んで対面すると、黙っていても双方の間に様々な感情や思い、気の流れが生じる。棋の対話がうまくいくと名局だ。観戦者も、この無言の対話を見つめている。そこまでの域を求めるのなら、やはり将棋道場の門を叩かなくてはならないが、興味を持つのは10人にふたりぐらいだと大内九段は考えている。さらに厳しい修行について来ることができる子は、また限られてくる。その向学心に満ちた子たちを棋士として大切に育てたいと。何といっても1,519手を諳んじねばならない世界だ。しかも将棋を指さなくても衣食住には差し支えない。お金にならないことに時間と労力を注ぎ込める根気は、今の人たちはないだろう。小学校課程への将棋を導入するのは、思考力や礼節を始めとする生きる力を学ぶためだ。
多くの選択肢を示されたなかで、「将棋こそ自分の道だと、ピンときた子どもだけが、自分で将棋界の門を叩きにくればいい」と、大内九段。もしかすると、それが棋士に必要不可欠な、直観力の試験だと、考えているのかもしれない。もちろん、自分のことは親に頼らず、また左右されることなく自分でする、という自立心も期待している。
<本当のインテリが必要>
大内九段の話を伺っていると、考える力があれば、学校という枠も必要ないのでは、という気持ちになる。「そうですね。学問の場なんて必要ないでしょう。学問の問を門にもじって、自分には門はないけど学はあると仰っていた先輩がいたけれど、確かに大学の門は関係ないですね。実践体験が全部に身ついている、体験によって自分を築き上げる力を持っている。そういう人が、本当のインテリだと思います。門だけある人は、横幅がない。与えられたことは出来るけれど、自分で考えて行動することが苦手です。頭で考えても、考えたことを使って体を動かさないと何も出来ないでしょう。だから学校という門をくぐっただけでは本当の勉強は出来ないのです。考えながら行動に移して経験を血肉にしていくことが、本当のインテリを育てるのですよ」
ネットワーク社会の恩恵で将棋業界の間口が広がったのは喜ばしいことではあるが、かえって思考力が落ちることならないか、心配も残る。しかし、将棋を通じて考える力を持つ子ども達が増えれば、未来の日本を支える強い柱が、日本中に立ち上がるに違いない。
よどみなく語る大内九段は、終始穏やかな表情を崩さない。それは対局という強い緊張から解き放たれたからこそ生まれた、別の強い生き方の表れのように思えた。
≪ (3) |
*記事へのご意見はこちら
※記事へのご意見はこちら