<山口銀行前身、第百十銀行の沿革(29)~銀行法の制定と県内銀行の合併(3)>
藤田銀行は、藤田財閥により1917年(大正6年)に設立され、1928年(昭和3年)に破綻している。藤田銀行を設立した藤田財閥の企業について取り上げてみたい。
藤田財閥は1911年(明治44年)に藤田組を大阪亜鉛鉱業、鉱山部門を藤田鉱業として分離。藤田組と藤田鉱業が合併して誕生したのが同和鉱業(現DOWAホールディングス)である。
日本を代表する日産・日立グループとも藤田財閥から派生している。久原房之助は伝三郎の実の甥であり、森村組にいたのを伝三郎に呼ばれて小坂鉱山に赴任し、新技術の導入により藤田組の経営立て直しに成功。久原は藤田組の支配人を務めた後に独立。一時は久原財閥を形成するほどの勢いだったが、第一次大戦後の恐慌と久原の政界入りで経営破綻に瀕していた。
それを憂慮した政友会の田中義一(元陸軍大将)らによる再建の懇請に、義兄の鮎川義助は渋々応じることになる。その後、鮎川は再建を果たし公開持株会社として、傘下に日産自動車・日本鉱業(同年12月、日本産業株式会社に社名変更)・日立製作所・日産化学・日本油脂・日本冷蔵・日本炭鉱・日産火災・日産生命など多数の企業を傘下に収めることになる。三井・三菱・住友に次ぐ日産コンツェルンを形成。
1938年(昭和13年)政府の要請を受けて満州に移転し、満州重工業解発(株)に改組するも関東軍と対立したため国内部門と満州部門にグループを分割再編。戦後GHQにより財閥解体の指定を受けて満州重工業解発は解散。
GHQの占領が終了して日本経済立て直しの機運が高まり、倉田主税(当時の日立製作所会長)によって旧日産コンツェルン系企業は再結集し、現在日産、日立グループと呼ばれる企業グループを形成している。
日産グループの一員であった日産生命は、1997年(平成9年)4月25日、債務超過により大蔵省から業務停止命令を受け破綻。戦後初の保険会社の破綻となった。その後、受け皿会社のあおば生命に引き継がれ、現在は吸収合併されてブルテンシャル生命保険となっている。
現在藤田の名が残っていのは藤田観光。同社が経営するひとつに、有名な結婚式場「椿山荘」(東京)がある。山縣有朋が1878年に私財を投じて購入した私邸だったが、当時、関西財界で主導的地位を占めていた藤田組の二代目当主・藤田平太郎が、名園をありのまま残したいという山縣有朋の意志を受け継ぎ、藤田家の邸宅や別荘として譲り受けた。都内に約2万坪に上る広大な敷地は、100年以上の時を経て藤田観光に引き継がれており、藤田財閥が後世に残した偉大な財産と言われている。
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