<山口銀行前身、第百十銀行の沿革(40)~三菱銀行系から三和銀行系へ(2)>
次に、百十銀行の経営陣が三菱系から三和系へ替わったことについて外部の資料から分かったことを記述しておきたい
三菱財閥と百十銀行との関係は、高橋亀吉著「日本金融論」(昭和6.12)によれば、財閥の金融支配を論じた中で、三井が三井銀行一本槍なるに対して、三菱は比較的多くの銀行に関係してゐる。三菱の経営せるものには、三菱銀行と山口県所在の百十銀行がある。外にその関係銀行として百五、六十三、第十九、下野中央、信濃の諸行がある」とし、同じく付表「三菱関係銀行現勢表(昭和4年末現在)」では三菱銀行と百十銀行を三菱財閥の直系とし、その他を傍系と分類している。また、明石照男元帝國銀行会長(元第一銀行頭取)は金融史談会で、三菱が高知の土佐銀行、山口の百十銀行というのが子銀行ともいえるけれども、...」と話している。これらの資料から分かるように百十銀行が三菱財閥あるいは三菱銀行と密接な関係にあったことはよく知られていたが、なぜこの時三菱銀行は百十銀行から手を引いたのであろうか。昭和十八年4月28日付の日本銀行考査局の総裁あて報告書「山口県下合同銀行ニ関スル件」はこれを明らかにする。
三和銀行は三菱銀行所有百十銀行株の47,000株を譲受くることに決定したるを以て同行従来の所有13,000株と合し60,000株を所有することになり同行総株中4割2分を占む 華浦銀行の三和銀行系たることは世間周知の通りなり 従って右二行並に宇部銀行を中心とする山口県下統合の新銀行は自然三和色強く寧ろ三和の子銀行となるべし 之に関し大蔵省銀行局の説明次ノ如し
一、実は当初三菱、三和共夫々新銀行に資本参加、現譲関係の儘にて県下の全銀行を合同せしむる予定の処 三菱銀行に話を致したるところ 同行は案外に此際あっさり百十銀行より手を引き度しと申し出あり以外としたり これより先三菱と三和との間には株の譲渡相談ありたるが如し
~以下省略~
三菱銀行の系列会社もしくは子銀行と見られていた百十銀行であったが、山口県下の5銀行合併にともない華浦銀行が三和色であること、三菱銀行が百十銀行からあっさり手を引いて、合同銀行が三和銀行系となることを認める過程が述べられている。原文は片仮名書きであるが、読みづらいのでひらがなおよび洋数字にて記述している。
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