"原発のメディア報道"について、辛口評論家・佐高信氏にご意見をお伺いした。昨年(2011年)6月に出版された佐高氏の著書「原発文化人50人斬り」(毎日新聞社)は、今でも増刷に、増刷を重ねている。
――東京電力・福島原発の事故後、メディアのあり方が問われています。
佐高 私は、今回の「原発事故」に対するメディア報道は、この体制を改めることのできる最初で最後のチャンスと思っています。ここで改まらなければ、もう未来永劫に、改まることはないかも知れないという気持ちでいるのです。
私は、批判は固有名詞でやらなければ批判にならないと思っています。裏がとれないとか、個人批判はよくないとか、色々な理由をつけて、日本のメディアの場合は事実を並べるだけで、個人を追及しないことが多いです。しかし、「原発報道」に関して言えば、明らかに推進派の広告塔的役割を果たしたビートたけし氏、弘兼憲史氏や中曽根康弘氏たちの犯罪性を明らかにしていくことが重要なのです。
ある意味、日本のマスコミの多くは上品ぶっており、この種の個人批判はすることが少ないです。しかし、私は、彼らが、電力会社からお金をもらって、その希望・要望に従って行動したことを追及しているのであって、別に個人の人格を追及しているわけではありません。メディアに従事する記者の最大の過ちは、自分たちを上品なものと錯覚していることです。メディアは、本来、泥臭く、下品なものなのです。ところが今、メディアの動きはこの考えと逆に向かっています。何よりも、下品さを恐れ、真実の報道とは全く関係のない、"提言"ブームさえ起っています。
下品さ、私が言うところの個人批判を失ったら、メディアはいわゆる毒を失い、牙を抜かれメディアでなくなるのです。その毒は、原発報道においては、見事に失われてきました。電力会社からお金を受け取り、「安全神話」の旗振り役であったビートたけし氏は、今でも、毎日のようにTVに出ています。しかし、確かな根拠を持って「原発危機」を言い続けてきた広瀬隆氏は現在でも、TV局からは"上映禁止物体"と言われています。電力会社からお金を貰い「安全神話」をばら撒いたビートたけし氏に、その後、原発のことはどう思うかを聞くメディアがでないのはおかしいと思うのです。これは完全にメディアが牙を失っている一例です。
<プロフィール>
佐高 信(さたか まこと)
1945年1月19日山形県生まれ。評論家・東北公益文化大学客員教授。
慶應義塾大学法学部を卒業後、高校教師や経済誌編集長を経て、評論家として活躍。近著に「電力と国家」。
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