1953年9月創業のベスト電器は、当時メーカー優位の家電販売業界にあって、創業者の北田光男氏が辛酸を舐めながらも"安売り"を前面に押し出した販売手法で日本一の会社にした。そして、長男・葆光氏が2代目社長として事業継承し、3代目社長に娘婿・有薗憲一氏が就いた。
2代目葆光時代は、会長として光男氏が残っていたため、「父の威光を受けて経営している」という見方がされている。ただ、葆光氏なりの経営方針も持っていたようだ。海外出店数を増やし、FCを中心とした全国展開で積極的な拡大戦略を採ったのもこの時代だ。しかし一方で、負の遺産も生み出すことになった。一気に有利子負債が増加し、ピークとなる01年2月期には957億円(97%は普通社債と転換社債)を抱えた。
また、本来は葆光氏の前に社長となるはずだった戸島酉夫氏(福岡相互銀行から転籍)という人物がいたが、「次期社長は自分だ」と飲みの席で失言。たまたまそれを聞いた光男氏の逆鱗に触れ、期せずして葆光氏が社長となったというエピソードもある。「光男氏の最大の汚点は、自分の息子の愚かさを知っていながら後継者に指名したことだ。ベスト電器を没落させた一番の犯人は葆光氏だ」と、光男氏や葆光氏、有薗氏らとともに中枢の仕事をしていた元側近の人物は語る。
ただ、「もっとひどいのは有薗氏。ベスト電器を没落させたもう1人の犯人だ」と前出の人物は糾弾する。「頭は良いがリーダーシップはなかった。ナンバー2の器で、トップになること自体が間違いだった。有薗の役割の1つに、北田光男から特命を受けて政界・財界への水面下工作を行なうものがあった。またベストを食いものにし、私腹を肥やすことに専念していた」という。
02年6月、約14億4,200万円もの負債(申請時)を抱え破産した(株)エヌケイという会社がかつてあった。市野紀子という人物が、ベストの出店やリニューアルの内装工事を行なう目的で設立した。数々の疑惑を有するこの倒産劇については、本誌『I・B』でも糾弾したことがある。スキームとしては、ベストが店舗工事を、ベスト子会社のベストハウジングに発注し、そこからエヌケイへ内装工事を発注していたという流れだ。このなかで、循環取引ともいえる不透明な資金の流れが債権者の間で問題となっていた。
元側近の人物は「市野紀子社長は有薗の愛人だった。恐らく10億円以上の資金が流れたのではないか。私はこの当時から背任行為があったと考えている」と証言する。また匿名投書でも、「有薗は以前から北九州の愛人にトンネル会社をつくらせ、ベスト電器の商品リベートをつぎ込むなど大がかりなリベート操作により、ヤマダ、コジマなどの価格攻勢に対抗できなくした大きな要因をつくったことは周知の事実である」という。
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