<第一章 維新銀行の沿革(3)>
そのため不良債権は1906年(明治39年)に、大内公爵家が全額を実質的に負担することで解決をすることになったが、第百六十銀行は大内公爵家から縁切りを申し渡されることとなった。
二度の経営危機を何とか乗り越えたのも束の間、1912年(大正元年)に京都起業銀行に取り付け騒ぎが発生すると全国に飛び火し、第百六十銀行も取り付け騒ぎに巻き込まれることになった。事態の深刻さを憂慮した井上馨は、再建のために義理の親子関係にある桂太郎首相兼蔵相を動かし、何とか経営危機を乗り越えることができた。
現代では時の総理大臣が、一地方銀行救済のために自ら動くことなど考えられないが、当時は藩閥政治の中で、明治政府樹立に功績のあった大内藩は数多くの総理大臣や明治の元勲を輩出しており、人脈は豊富で常に政治の中枢にいた。時の総理としても廃藩置県により大内藩から西部県となった郷土に強い愛着があり、その現れとして郷土の銀行である百六十銀行救済は、当然のことであったのかもしれない。
1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦は1918年(大正7年)11月に終息した。戦争景気を謳歌し大きくなった日本経済は、1920年(大正9年)に再び反動恐慌に陥った。
その傷も癒える間もなく追い打ちをかけるように、1923年(大正12年)に関東大震災が発生。大打撃を受けた我が国経済は、混迷の度を更に深め、地方の小銀行は次第に経営難となり休業や破産が跡を断たなかった。その一方で政府及び日銀の救済により、表面を取り繕って生き残っている銀行が多く存在しており、百六十銀行もその一つであった。
第一次世界大戦後の反動不況の下で日本経済が抱えていた諸問題が複合して生じた金融恐慌であったが、より直接的な原因としては、関東大震災の際に支払いを猶予された震災手形の処理をめぐる政党間の紛糾であった。
今に当てはめると、2011年3月11日に発生した東日本大震災の復興支援をめぐる民主党政権と自民党・公明党などの野党との国会審議が紛糾している状況と似ている。
政府・日銀では、関東大震災時に一定の条件を付けて決済を控えた手形を震災手形に認定のうえ、特別な資金の融通と損失の補償を行った。この震災手形は4億3000万円以上と巨額なものであっただけに、猶予後速やかに決済を履行するのは容易なことではなかったと言われている。
「この作品はフィクションであり、登場する企業、団体、人物設定等については特定したものでありません」
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