<第一章 維新銀行の沿革(4)>
日本経済はなお慢性的不況から脱することができなかった。このため、震災手形の支払猶予期間は再三にわたって延長され、1927年(昭和2年)9月末が最終期限となっていた。
この状況に対し政府は、経済の安定と預金者保護の立場で銀行条例を何度も改正し、銀行合同の手続きの簡素化を図ると共に、合併を勧奨して相当の成果を上げてはいた。1926年には不況打開を意図した金解禁の準備も兼ねて、金融制度全般の改革を指向した「金融制度調査会」を設置している。
慢性的な不況を脱出するために政府は1927年1月、政府補償によって震災手形の整理を進めることとし、震災手形損失補償公債法案および震災手形善後処理法案を議会に提出している。
同年3月14日の衆議院予算委員会にて、9月30日が期日となる震災手形を10年間繰り延べる震災手形関係二法(震災手形善後処理法案、震災手形損失補償公債法案)が審議されることになった。
本来は与党側の片岡直温大蔵大臣と野党側の田中義一が内々に合意していたこの法案も、新聞各紙がその癒着を報じると、一転して野党立憲政友会は与党憲政党を攻撃することになり、事態は泥沼化することになった。
衆議院予算委員会の審議の始まる3月14日の朝、かねてから放漫経営により資金繰りが厳しかった東京渡辺銀行(第二十七国立銀行を経て二十七銀行から改称)が、正午の資金繰りに困り果て、専務が大蔵省の事務次官に資金融通の陳情をする事態となり、片岡大臣にもその窮状は伝えられた。その後東京渡辺銀行は何とか資金手当てをすることに成功したが、審議に備えて資料整備に忙殺されていた片岡大臣には、東京渡辺銀行の資金繰りが成功したことは伝えられていなかった。
午後に再開された衆議院予算委員会で、業績の悪い企業の名を明らかにするように求めた野党に対し、企業への信用不安を恐れた片岡蔵相は事務次官から差し入れられたメモを元に、「そんなことはできません。現に今日正午頃において東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と国会で失言したことが昭和金融恐慌の発端となった。
「この作品はフィクションであり、登場する企業、団体、人物設定等については特定したものでありません」
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