<第二章 維新銀行の誕生(1)>
三星銀行系列から御堂銀行系列へ
西部県の西に位置する海峡市は商業と漁業基地の町であり、大陸との玄関口として栄えており、百六十銀行の本店がある。また県南部は石炭産業を地盤とした常盤銀行がある。県東部には塩田事業を基盤とする銀行など、同じ西部県のなかでも、設立した目的がその地域の産業に密接に関係している。合併までの過程においてはそれぞれの銀行の事情もあり、すんなりとまとまる状況ではなかった。大蔵省は残った6行のうち、まず規模の小さい銀行同士を合併させることで話をまとめたが、合併寸前で一方の銀行の取締役会がその覚書を否決したことから、西部県を1行乃至2行に集約するための布石が過去に頓挫した苦い経験を味わっている。
1943年(昭和18年)12月20日に、西部県下6行の頭取が大蔵省の本省へ出頭を命じられている。前日の乗車列車の指定まで指図して、乗り合わせた6人が揃っているかを事前に確認させており、合併に対する当局の並々ならぬ意気込みが読み取れる。
平成バブル崩壊後の金融再編成により都銀、地銀が解体処理または合併させられているが、本件の合併と同様、銀行が金融当局の「有無を言わせない」指導・監督下に置かれているのは、昔も今も変わっていない。
大蔵省は、太平洋戦争の戦費調達が厳しくなったことから、国の命運をかけた大量の戦時国債の引受け先を確保することが急務であった。その一環として大手銀行の合併を推進するとともに、一県一行主義を強力に推進し、全国の地方銀行を如何に早く合併させるかが喫緊の課題であった。
西部県でも大蔵省の強い指示を受けて合併交渉がスタートした。統合要綱で新銀行名が「維新銀行」と決まった。合併6行の中で、百六十銀行に次ぐ規模を持つ常盤銀行は、本店が西部県の西端の海峡市に決まったことから不満は残ったものの、一行だけ抜けるわけにはいかず、大蔵省の挙国一致の窮状を打破するためとの大義名分を受け入れ、渋々合併に賛成することになった。
大蔵省としては6行合併が再度頓挫することを恐れていた。維新銀行の存続銀行である百六十銀行は三星銀行の系列下にあり、残りの5行は大阪に本店を構える御堂銀行と親密であった。誕生する維新銀行が三星銀行の系列に入ると合併が破断する恐れがあると見た大蔵省は、維新銀行が御堂銀行の系列に入ることを認めることに傾いていった。
御堂銀行としても親密な関係にある5行が、三星銀行系列の維新銀行に入ると西部県における拠点を失う恐れがあるため、維新銀行を何とか系列に収めようと大蔵省と極秘裏に交渉を進めていた。
「この作品はフィクションであり、登場する企業、団体、人物設定等については特定したものでありません」
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