<第三章 植木頭取時代>
不祥事件の発覚(3)
他に類を見ない不祥事件に対して、植木頭取もしくは営業本部長が責任を取って辞任するか、もしくは降格するかの選択肢があったが、伝統ある維新銀行は銀行の顔である頭取を守る人事を決断した。
また事件を起こした支店を統括する東南地区の統括責任者で、後に頭取となる谷本亮二取締役東南支店長も、その監督責任を問われることはなかった。
維新銀行の定期証書偽造事件が発生する6年前の1973年10月21日に、滋賀銀行山科支店の奥村彰子(当時42才)が、9億円横領の容疑で逮捕されたが、定期証書偽造事件による維新銀行の被害は約15億円となり、それまで9億円であった銀行史上空前の被害金額を大きく塗り替えることになった。
滋賀銀行や維新銀行など不祥事を起こした銀行は、大蔵省の厳しい監視下で、行政指導や大蔵省検査(いわゆるMOF検)でペナルティを受ける。定期証書偽造事件が発覚してから約5年以上にわたり、維新銀行は大蔵省から新規支店の出店が認められず、店舗展開において大きな後れを取ることになった。
その後1991年(平成3年)8月13日、東洋信用金庫(大阪市)を舞台に、興銀などを巻き込んだ尾上縫による3,240億円に上る巨額の架空預金証書事件が発生。平成バブル崩壊を象徴する大スキャンダルが発生し、大手金融機関再編への導火線となった。
絹田頭取と交代して、頭取となった植木晃氏は1960年に取締役に昇格し、1962年に常務、1970年に専務、1974年に頭取に就任。頭取就任の5年後に不祥事件が起きたが、その後は堅実経営に徹したことが評価され、1981年に東証・大証の2部に上場を果たし、その7年後に東証・大証1部に指定替えとなった。
維新銀行は上場により有力地方銀行としての地歩を固め、堅実経営と内部留保が厚いことが評価されて、株価は地方銀行のトップであった。その後も1992年まで通算18年間にわたり、維新銀行の頭取として君臨することになる。植木頭取は定期証書偽造事件が発生したことが教訓となったのか、長期政権を続けていくうちに、行内の綱紀粛正は更に厳しさを増すことになった。
「石橋を叩いて渡る」の諺があるが、「石橋を叩いて壊す」と言われるほど、植木頭取の経営方針は手堅く、バブルに手を染めない堅実経営の銀行としての地盤を築くことになった。
「この作品はフィクションであり、登場する企業、団体、人物設定等については特定したものでありません」
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