<第四章 植木頭取時代>
次期頭取誕生までの栄光と挫折(1)
定期証書偽造事件が発生した時、東南地区の統括責任者で東南支店長であった谷本亮二取締役は、常務取締役西京支店長を経て、1987年、常務取締役営業本部長として本店で采配を振るうことになった。
谷本は入行以来人事部に長く在席していたが、本店の副支店長を経て、45才の若さで取締役本店長に抜擢され、将来の頭取候補としての呼び声が高かった。
谷本は東南市の出身で、朝霞の陸軍士官学校に在学中に終戦を迎えた。失意の中、一念発起して東京の有名私立S大学大学院で経営管理学研究科の修士課程を終え、維新銀行の度重なる経営危機を救った明治の元勲井上馨の姪を母とする大物実業家が創業し、西部県と深い繋がりのある大手機械メーカーT社に就職。人事部労務課に配属され労組との交渉窓口を担当していた。
谷本が維新銀行に入行した動機および時代背景について触れておきたい。
終戦後、占領軍・連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の保護育成の下に、1950年(昭和25年)7月、日本労働者総評議会(総評)が結成された。結成時は反共の色彩が強かったが、翌年の第2回大会で「平和四原則」を決定するなど急速に左傾・反米化していく。再出発した日本の労働運動は、当時の経済および社会情勢を背景に、全国規模の春闘やメーデーを組織した総評などの組合活動は次第に過激化し、かつ政治的色彩を色濃く反映するものとなっていった。
金融機関もその例外ではなく、 生活水準の戦前復帰をめざす全銀連傘下の組合活動が盛んになっていった。維新銀行にも従業員組合はあったが、加入する組合員も任意であり、その活動も組織的なものではなく労働協定上の形式的な組合であった。
ところが維新銀行の隣県に位置する福岡銀行では、従業員組合が経営側に生活水準の改善を求める要求書を提出し、その組織的な活動は次第にエスカレートしていた。
福岡銀行の組合運動が活発化するに伴い、維新銀行経営陣は危機感を募らせていたが、行内には組合対策のできる人材は見当たらなかった。そのため外部から専門家を急遽招聘することにし、何人かとは面接したが維新銀行の目にかなう人材にはなかなか巡り合えなかった。
そんな折、絹田頭取の知り合いの甥にあたる谷本亮二を紹介された。谷本は「絹田頭取と同窓のS大学大学院卒業後、T社の人事部労務課で組合幹部と対等に渡り合える人物である」との話を聞き、谷本に興味を持った絹田は知り合いに面接の手配を依頼した。
6月中旬、海峡市の本店で行われた面接には絹田頭取自らが臨んだ。若い谷本は物怖じすることもなく、豊富な知識と経験から堂々と自分の考えを述べて、頭取を始めとして居並ぶ人事担当役員や部長に好印象を与えた。「当行の命運は君の肩にかかっている。組合対策の責任者として来月1日から是非来てほしい」と三顧の礼を尽くした絹田頭取の言葉に感動した谷本は、1953年7月1日付で維新銀行に入行した異色の経歴の持ち主であった。
「この作品はフィクションであり、登場する企業、団体、人物設定等については特定したものでありません」
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