張氏が独学で日本語を勉強し始めた時、ちょうど工場でも「日中国交正常化」の影響で、技術幹部のために日本語のセミナーが開かれていた。本来は、単なる労働者で参加資格はなかったが、勝手に潜り込んで聴講したという。
真面目に勉強したおかげで、セミナーの日本語の先生と仲良くなることができるようになる。その先生は、翻訳の仕事が忙しくなり、日本語のセミナーの講師を辞めてしまうのだが、不思議な縁で、しばらくして、製鉄所内の大きな図書館に行った時、偶然に再会を果たすことになる。
おまけに、「翻訳の仕事が非常に忙しいので、手伝ってくれないか」と頼まれたのだ。
当時、迷って相談した父親に「日本語をいくら勉強しても、実際に使わないとできるとは言えない。使うチャンスがあるのなら、明日先生のところに行くべきだ」と言われている。
「せっかく日本語を覚えても仕事で使う場所がなければ、意味がない。今できなくても、そのうち、日本語を書き、喋れるようになる自信がありました」「地位が考え方を決めるか、それとも考え方が地位を決めるかということです。私は、考え方が地位を決めると思っています」と当時を振り返る。今、考えると、この決断こそが、張氏の現在の地位を築く分岐点だったと言えるかも知れない。
しかし、それからが大変だった。先生から最初に渡された翻訳はとても難しく、できそうもないものだったのだ。何とか、父親の知り合いの朝鮮族の先生に助けてもらい納品したら、さらに難しい仕事を渡されている。製鉄所の高炉の専門資料だ。その時は、製鉄工場に連れて行かれ、高炉の基本知識を学んだ。現場を見てから翻訳すると、流れが分かっているので、知らない専門用語がでて来ても何とか訳すことができ、無事納品できた。
張氏は1973年から数年間、日本語の勉強、翻訳の手伝いをしている。総計約40万字分の日本語の資料を中国語に翻訳している。難関北京師範大学の日本語専攻に一発合格できた理由はここにある。張氏は、82年に北京師範大学を卒業する時点で、「卒業分配」によって、製鉄所に戻ることが決まっていた。
ところが、北京市政府も張氏を欲しがっているという噂が耳に入ってくる。ここからが、凄い。まさに「速戦速決」(孫子の兵法)の見本のような行動にでる。張氏は直接、経済委員会の担当者に会いに行き、何と北京市政府入府を決めてしまうのだ。
しかし、その張氏も、5年後には、新しい可能性を求めて、厳しい競争で入った北京市政府の役人を辞め、埼玉大学経済学部の研究生として日本に留学することになるのである。
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