今回、このシリーズのトップバッターとしてヤオハン・和田一夫氏を扱う。筆者の周辺には75歳を起点にして「社会貢献をして最後のご奉公を完遂したい」と熱気に燃えている方々に数多く接する機会が多い。「妻と海外旅行を楽しむ」とか「親しい友人と酒を飲む」とか「趣味で余生を充実させたい」という老人たちが大勢の中で「75歳を過ぎての最後のご奉公」を貫く方々の闘いは清々しい。沢山の闘士家たちを紹介したい。
<ヤオハン・和田の絶頂期のおさらい>
和田一夫氏は1929年3月2日生まれであるから現在83歳になる。静岡県熱海にあった家業である八百屋「八百半」を30年間で世界的な流通・小売業「国際流通グループ・ヤオハン」まで発展させた傑物経営者であったことは誰しもが認めるところだ。結果的には97年9月にヤオハン・ジャパンが会社更生法を申請して倒産したが――。しかし和田氏は流通業界においてはダイエーオーナーであった中内功氏と匹敵する話題を提供できる異色の経営者であった。かたや「国内制圧志向のなかうち」、こなた「国際流通の雄を目指すわだ」と対照的であった。
ヤオハングループはブラジルなどの海外展開の実績を持っていた。アジアの展開を積み重ねつつ海外展開の本格化を決断したのは88年である。この年にヤオハン香港を香港証券取引所に上場させたときからだ。和田一夫氏の家族は香港に移住した。香港に居住していた豪邸は香港を一望できる一等地であったとか。持ち主は香港上海銀行のトップの要人であったとか。広さは2万平方フィートで噂によれば「部屋数は69部屋あった」となる(部屋数の数え方にもよるが――)。
91年に購入した価格は85億香港ドルであった。訪問した人の証言によると「ロールスロイスが6台あった。ビックリした」というのを耳にした。まさしく香港社交界のビップの扱いを受けたようである。しかし、この栄華に甘んじなかったのが和田一夫氏の真髄である。中国進出のチャンスを虎視眈々と狙っていたのである。
<天門安事件を『チャンス到来』と捉え動く>
89年に「天門安事件」が勃発した。ちょうどその時期に筆者は上海にいた。街中は学生・青年たちのデモで騒然としていたのを記憶している。中国の学生・青年たちの愛国主義的行為を中国共産党は人民軍を使って虐殺した。この中国政府の弾圧・虐殺行為に対して国際社会は強い批判をして経済交流に封殺処置を打った。日本企業も中国から引き揚げた。
「これは千載一遇のチャンス」と決断した。この機会を逃さずに和田氏は中国の経済中心部・上海への進出を決定したのである。本人しても経営者人生において最大の英断であった。この英断が和田氏のビジネス人生のピークであったといえる。≪困ったっときに手を差し伸べてくれた人には一生恩返しをする≫のが中国要人の共通の行動パターンである。和田氏はこの特性を充分に理解していた。
すぐさま91年に中国進出に動いた。極めつけは95年に上海・浦東にアジアの巨大百貨店上海第一八佰半百貨店開店を実現したのだ。93年当時はこの百貨店の建設予定地は田んぼの中であった。取材に行ったが「現場予定地には菜の花が満開であった」ことが印象的であった。いまや近くにはリニアモーターカーの起点ステーションもあり浦東地区の一大拠点になっている。また残された上海第一八佰半百貨店は中国一の収益事業百貨店で稼働しているようだ(上海のトップ百貨店・上海第一百貨店が経営している)
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