<上海第一八佰半百貨店は、中国に革命をもたらす貢献>
6月15日の中国経済新聞に、ヤオハンの和田一夫氏の功労について、下記の通りに記載されている。以下、引用。
上海第一ヤオハン百貨店公司の前薫事長陳顕釗氏は上海小売り業界の元老で、かつて上海第一百貨公司と、当時の日本ヤオハングループ合弁の実務責任者となり、上海浦東に「第一ヤオハン」を設立した。陳氏はかつて私にこう述べた(私とは中国経済新聞社長・除静波氏)。
「中国に於ける現代商業の様式は、日本から学んだものです。以前、中国のデパートは、一階がウールのカーディガンやブラウス売り場でしたが、第一ヤオハンが浦東にオープンした時に、一階はすべて化粧品売り場にしました。その影響でデパートに入ると直ぐ眼に入ってくるのは、ハイセンスな商品と美しい売り子さん達であり、部屋中に馥郁と漂う香りに、お客様はふっと一種の新鮮さと興奮を覚えたものです。その頃から、中国のすべてのデパートの一階は、全て化粧品売り場に変えられました。これはヤオハンの和田一夫会長の功労であり、日本の商業モデルの中国に対する貢献です」。
(引用終わり)
スゴイ評価ではないか。和田一夫氏、絶頂の時期が想像できる。
<倒産の坂道は日本での躓き>
香港、上海を先頭に中国でのビジネスにおいて、エンジンがフルチェンジできる状態になっていた。しかし、「なぜ?」和田氏は倒産の坂道を下り始めたのか。
それは、日本国内での営業不振が敗北を招いたのだ。国内には、小売り戦争を引っ張る経営陣がいなかったのである。1996年、国内の経営危機が表面化した。97年5月、直営店15店と子会社の1店舗を、当時のダイエーグループへ営業譲渡するハメになった。とどめは97年7月に(株)ヤオハン・ジャパンが会社更生法を申請し、事業管財人に岡田卓也ジャスコ(株)会長が就任した。日本国内の小売り流通戦争は、「食うか食われるか」の熾烈さが強まっていた。
和田氏はどうしていたのか。中国・アジア戦略を着々と打っていた。95年には、関連会社をシンガポールやマレーシアの証券取引所に上場していった。96年に、派国際流通グループ・ヤオハンの総本部を上海へ移転した。日本国内の業績不振とは関係なく、中国・アジアで確実に商圏を拡大していった。日本の企業とは別組織であり、お互いに上場もしていたのだ。なぜ和田氏は、敢然と日本との関係を断ち切れなかったのか。
後年、和田氏に問いただしたことがある。しかし、本音の披露には至らなかった。
たしかに金融団の必死な回収策は巧妙であった。本人の個人保証を取って、幾ばくかの融資の回収の足しにしようと躍起になっていた。和田氏も、そこのところは充分に心得て駆け引きをしていた。だが、【家系の長として日本の経営責任から逃げてはいけない】という責任感を捨てられなかったのであろう。「後世、中国・アジアビジネスの成功で報いてみせる」という決断をしていれば、結末は別になっていただろう。
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