<71歳での再挑戦>
和田氏は1997年に上海市栄誉市民賞を受賞した。そのビジネス人生の絶頂とみられた一瞬に日本の本体が会社更生法を申請して同氏は奈落へ飛びこんだ。前回、指摘した通り毅然たるビジネスライクを貫徹すれば中国・アジアでは大勝利していた可能性は高い。第三者からみれば興味あるドラマの展開である。だが、本人にしてみれば「天国と地獄」の往来であり、一度は「死にたい」誘惑に駆られたかもしれない。
事業家・和田一夫の生き様は一部の若者たちを魅了させていた。各地区で講演していたが、熊本でのことだ。講演が終わり質問時間になった。ある若者が手をあげた。「和田先生、是非、飯塚に来て我々を指導ください」とえらく熱心に頼み込んだ。この若者の名は正田英樹氏である。後に和田氏とハウ・インターナショナルという会社を共同経営する関係になるのだ。人生とは面白いものである。
飯塚とは筑豊の飯塚市のことだ。ここには国立九州工業大学情報工学部がある。正田氏はここの卒業生だ。飯塚市の一角に「九州のシリコンバレー」と呼ばれる場所がある。九州工業大学を卒業したメンバー達が起業して会社を設立した。その中心人物が正田英樹氏のである。九州シリコンバレーの同志たちと議論する過程で「経営キャリアを積んだ先輩のアドヴァイザーが欲しい」という結論に達した。そこで和田氏に白羽の矢が立った。
その口説き役を正田氏に振られた。幾度かの説得に和田氏は心が揺らぎついに決心する。「余生は未来に可能性のある若手経営者の育成に尽くそう。己の経験が役に立てば光栄だ」と自分に言い聞かせたのである。2000年に飯塚市へ移転してきた。和田氏、71歳のときである。まずは正田氏などとハウ・インターナショナルを設立した。マスコミにも大きく取り上げられて話題にはなった。
<再度の上海へ進出したが――>
和田氏が活動を始めるとエリアは飯塚・福岡には留まらない。東京・全国から講演の依頼が殺到するようになる。多忙を極めるなかで、いつの頃からか同氏の体内から「もう一度、中国とのかけ橋役を果たしたい」という情念が燃えてきた。この思いは当然の帰結である。2002年、上海にオフィスを構えた。関係者から「上海市名誉市民が戻ってきた」と拍手喝采を浴びた。ここで始めたのが、日本、中国の若手経営者・後継者を対象にしたセミナーである。これは非常に好評を博した。さすがである。
関係者が証言する。「01年や02年当時ならまだ和田さんの人脈が太いパイプがあった。上海市長とも強い信頼関係にあったし、副市長が北京中央へ栄転しておりビックリ仰天の人たちと会えていた。この時が最大のチャンスだった。和田さんが上海に行くと翌日には3社の新聞には【ヤオハン和田氏が上海を訪問】と記事になるほど注目されていた時期だ」。
また別の人が悔しがる。「中国が紹介するビジネスの大きさに対応できるビッグ企業を日本から連れていけなかったこちらの弱さがあった。先方の要望に応えられる仕かけを完遂できていればグッド・ラックになっていたに違いない。しかし、要人との付き合いには金がいる。3,000万円の金は一瞬にして消えてしまうくらいだ。誠に残念だ!!」。
さらに不運な事態が生じた。江沢民が意識的に操作したとみられる【反日運動】の発生である。その時には和田氏の選択は帰国することであった(福岡へ)。1991年の天門安事件ときの決断とは逆になってしまった。あの時は日本人・日本企業が大挙して一目散に帰っていた。そこを『チャンス』と読んで和田氏は中国へ進出することを決めた。しかし、今回は帰国の道を選んだ。
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