ヤフーの社長だった井上雅博氏(55)は、6月21日の株主総会で後任の宮坂学氏(44)に社長職を譲り、1996年の会社創設以来、16年間の長きにわたって社長を務めてきたヤフーをついに去ることになった。長らく兼務していたソフトバンクの取締役も、同日辞職した。"ソフトバンク帝国"の"君主"たる孫正義社長(55)に絶対の忠誠心で尽くしてきた"功臣"井上氏は、なぜソフトバンクグループを去らなければならなかったのか。
井上博雅氏は92年にソフトバンクに入社し、孫氏の秘書室長として側近に仕えた。彼が入った後にソフトバンクは株式公開をし、インターネット事業に傾斜していくため、まさに会社が急成長を遂げていこうとする時期だった。典型的な「オタク」上がりの井上氏からすれば、パソコン革命・ネット革命を説く孫氏は、まさに神のような存在だった。自分にかしずく井上氏を孫氏はいたく可愛がり、96年に米国ヤフーと合弁でつくったヤフーの日本法人の社長に井上氏を据えたのだった。
以来、ソフトバンクの本体は山あり谷ありの疾風怒濤の社齢を重ねてゆくが、ヤフーはそんな激動期のソフトバンクグループにあっては、奇異に思えるほど堅実に伸長していった。まったくゼロから始まった事業は、2012年3月期の連結売上高が3,020億円になるほど成長し、驚くべきことは経常損益が1,673億円の黒字で、最終損益段階でも1,005億円の黒字という異常なる利益率(売上高最終利益率33%)の高さである。
事業欲が旺盛すぎるとも言える孫氏が、日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)の買収やナスダック・ジャパン市場の開設、さらには日本テレコムやボーダフォンの買収という大博打を相次いで打ち、借入金残高が膨張して信用不安が生じたことは再三再四あったが、そんなときに市場で膨れ上がる信用不安の解消の一助となってきたのがヤフーだった。無借金経営で、4,683億円もの純資産の半分強の2,570億円は現預金である。時価総額は1兆4,000億円を超え、いざとなればヤフーを売却すれば、ソフトバンクにキャッシュが転がり込む。ヤフーはソフトンバンクグループの財布であり、金庫だったのである。
だからこそ井上氏は、堅実一筋に務めてきた節がある。すなわち、冒険をしないのだ。日本のネット界のガリバーであり続けたヤフーには、2000年以降、ネットやITに魅力を感じたネットオタクたちが、次から次へと門戸を叩きに来た。日々のすさまじい量のトラフィックにどう対応し、どんな新機軸を打ち出していけばいいのか――、日本のネット業界の先駆者であるヤフーの職場は、日々が実験場だった。さながら"梁山泊"のようだった。
だが井上氏は、資金を投入するような新規事業にはずっと及び腰だった。検索サイトとしての圧倒的な存在感を活用して、楽天やアマゾンが手がけるような物販に乗り出してもよさそうなものを、彼はやりたがらない。04年にはプロ野球「近鉄バファローズ」の球団買収が持ち込まれたが、それも井上氏が首を縦に振らない。結局は、ヤフーの企画部長の橋渡しも手伝って、ライブドアが買収に乗り出すことになる。最近流行りのFacebookでも、先方から申し込まれた合弁交渉が結局実らず、実現しなかった。
梁山泊のようなヤフーに魅力を感じた青雲の志のネット人士たちが失望し、相次いでヤフーを離れるのも無理からぬことであった。企画部長として有名だった佐藤完氏は、井上氏にあきれ果てて退社。Facebookとの合弁交渉を手がけていた児玉太郎氏は、当のFacebookに引き抜かれて、今は同社の日本代表を務める。ヤフーの検索事業部長の井上俊一氏は、百度(バイドゥ)の日本法人に転じた。このほか、サイバーエージェント、グーグル、ライブドア、ミクシィなどへ櫛の歯が抜けるように人材が流出していった。
結果的に「余計な仕事はしない」という消極的な雰囲気が社内に蔓延している。広報部門もその1つだった。「もっとメディアに向けて仕掛けられるのに、井上さんが『余計なことをやらないでいい』という感じだったので、完全に受け身の広報でした」と、元広報担当者は振り返る。
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