<権威の象徴としての天守(天主)の出現>
織田信長の最後の居城「安土城」は、日本の城のなかでも、1位・2位を争う名城だ。しかし、天正10年(1582)、家臣であった明智光秀の謀叛により、信長が京都・本能寺に没すると、13日後に安土城は原因不明の火災で炎上し灰燼に帰した。豪華をきわめ絢爛と輝いていた天主(安土城のみが天守のことを天主と呼ぶ)は、わずか3年の命運であった。そして今、天主跡には礎石が残るだけとなっている。
安土城天主は、それ以前の軍事的役割は減少し、信長の権勢と「天下布武」の象徴としての壮大な建築物であった。天守の起源については、松永久秀が永禄3年(1560)頃に築いた多聞山城がその嚆矢(こうし)だろうが、安土城天主はその規模や意図において、それまでの城郭にはない発想に基づいていた。
近世城郭における権威の象徴としての天守は、この安土城によって確立されたと言ってもいいだろう。
安土城天主は不等辺八角形の天主台に、5層地上6階、地下1階、高さは石垣上32・5メートル、本丸から46メートルという巨大なもので、琵琶湖の湖面(ゼロメートル)から計算すると天主頂上部分までの高さは霞が関ビルに匹敵するものであった。
<時代を変えた信長の築城思想>
安土城がそびえ立つ安土山は、高い山ではないが、近江一円を見渡すことができ、東海・北陸と京都を結ぶ要地であり、北・東・西の三方を琵琶湖に囲まれた要害の地でもあった。要害の地に山城を築くという発想自体は、戦国大名であれば誰もが考えることではあるが、安土城の縄張は信長の画期的な発想が盛り込まれている。当時の城の多くは、外敵が攻めてきたときに守りやすいように、何重にも道をくねくねさせるのが常識であったが、信長は天主へと続く一番重要な道を真っ直ぐに造った。
信長の心意気は、武田信玄や上杉謙信のように、領国だけを「守る城」ではなく、「天下を治め統一する城」をイメージしたため、真っ直ぐな道になったと言われている。
安土の城下には斬新な政策が次々と実行され、楽市楽座や関所の撤廃などで経済都市として繁栄し、家臣たちが在所を離れて城下に住むことで、兵農分離が進んだ。
信長は、戦国乱世に暮らす人々に、天下統一による平和で安寧な時代の到来と織田政権の力を、安土城によって知らしめたのである。
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<プロフィール>
濱口 和久 (はまぐち かずひさ)
昭和43年熊本県菊池市生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、民主党本部幹事長室副部長、栃木市首席政策監などを経て、テイケイ株式会社常務取締役、国際地政学研究所研究員、日本政策研究センター研究員、日本文化チャンネル桜「防人の道 今日の自衛隊」キャスター、拓殖大学客員教授を務める。平成16年3月に竹島に本籍を移す。今年3月31日付でテイケイ株式会社を退職し、日本防災士機構認証研修機関の株式会社防災士研修センター常務取締役に就任した。『思城居(おもしろい)』(東京コラボ)、『祖国を誇りに思う心』(ハーベスト出版)などの著書のほかに、安全保障、領土・領海問題、日本の城郭についての論文多数。5月31日に新刊「だれが日本の領土を守るのか?」(たちばな出版)が発売された。 公式HPはコチラ。
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