<事業拡大を測った光博氏事業を後継する息子たち>
光博氏が経営していた千鳥饅頭総本舗(旧・千鳥屋ファクトリー)は、新宮町のセントラル工場を製造拠点に事業を展開している。
光博氏は、チロリアン発売の翌63年からヨーロッパで修行しており、その頃にウルズラ夫人と出会った。帰国後は、ドイツ菓子店「エルベ」、69年にはパンの「スベンスカ」を起こした。千鳥屋ファクトリーを設立したのは、ツユ氏が亡くなった後の97年8月。係争の最中の2000年にスベンスカを吸収合併し、チョコレート専門店の「アナベル」を出店。05年に、千鳥屋ファクトリーから現商号の千鳥饅頭総本舗に変更した。
しかし、光博氏は悪性リンパ腫に侵されており、08年6月に逝去。その後はウルズラ夫人と息子たちが事業を引き継いだ。
光博氏とウルズラ夫人の間には3人の息子がいる。長男・浩司氏(1972年生)、次男・健生氏(1975年)、三男・広太郎氏(1978年)で、いずれも父同様にドイツ留学を経験している。光博氏死去後、一時はウルズラ氏が代表権を持ち、二男・健生氏が代表権のない社長となり、2人で組織経営基盤の見直しや再構築に努めていた。
その後、10年4月末、ウルズラ氏が代表取締役社長となった。次男・健生氏は取締役社長から常務取締役となり、主に金融機関の対応などを行なっていた。長男・浩司氏は関東でチョコレート専門店の(株)アナベルジャパン(東京都中央区日本橋)を展開していたが、出身地福岡へ戻ることとなり、これを機に同社専務取締役となっていた。三男・広太郎氏は、社長室長として広報的な役割を担っている。広太郎氏は、過去に07年12月まで取締役を務めていたが辞任。兄弟のなかで取締役ではなかった。光博氏の死去から数年の間にも、役員体制は頻繁に変遷している。
<長男・浩司氏の社長就任と次男・健生氏の決別>
その後11年12月13日付で、またも役員変更が行なわれている。現在の同社の役員体制であるが、長男で専務を務めていた浩司氏が代表取締役社長に就任。ウルズラ社長は代表権のある会長職に就いた。三男の広太郎氏が取締役となり、企画室室長を務める。なお、専務職は空席となっている。
このタイミングでの役員変更について、当時、広報の広太郎氏は「(兄は)独り立ちしたかったので」とコメントした。ウルズラ氏のサポートとして取り組むより、浩司氏自身がトップとして独り立ちしたかったということなのだろうか。浩司氏はチョコレートの「アナベル」で東京に基盤を築く決意で臨んだが、東京の店舗を閉鎖して福岡に復帰し専務に就任した経緯がある。アナベルは「東京に販路を開拓してアンテナショップとしての役割は果たした」としているが、アンテナショップを企図しての出店ではなかった。東京で決して成功したとは言えない浩司氏が、なぜ同社のトップに就任できたのだろうか。
社長経験もある次男の健生氏は、同日付で登記上解任となっていた。健生氏が保有していた株式はウルズラ氏が保有することとなったとされる。
同社は健生氏について、「ベーカリー事業(スベンスカ)をもって独立しました」と説明した。健生氏は上智大学経済学部中退後、98年2月に千鳥屋ファクトリーに入社。同2月に千鳥饅頭総本舗取締役、04年4月の同社取締役ベーカリー事業部長に就任。健生氏は、04年から約8年近くもベーカリーに携わっていた。
「千鳥屋総本舗の方針として、ベーカリーは廃止しようということになりました。僕はパンにずっと関わってきたのでパンに対する思い入れもある。スベンスカは40年以上も続いてきた事業です。これをなくしてはいけないと思いました。所有していた株式も母にわたし、スベンスカを引き継ぐということで独立しました」と健生氏は話した。
父光博氏が始めたスベンスカは、69年の創業以来、40年以上経った今でも事業は継続している。博多駅など福岡の主要拠点に店舗も構えていたこともあり、一定の知名度を有している。ベーカリー事業への関わりが長かった健生氏としては、スベンスカを失うことはできなかったのだろう。
<COMPANY INFORMATION>
代 表:原田 浩司
所在地:福岡県糟屋郡新宮町緑ケ浜1-2-5
(登記上):福岡市博多区上呉服町10-1
創 業:1630年
設 立:1997年8月
資本金:1,000万円
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