「私たちはいま、静かに怒りを燃やす"東北の鬼"です」―昨年9月16日に行なわれた「さようなら原発集会」で、6万人の聴衆に深い感動を与え、歴史的スピーチをした武藤類子氏。今年6月11日、武藤氏を団長とする「福島原発告訴団」が、1,324名の福島県民の悲痛な叫びを原発事故責任者33名の刑事告訴というかたちで世の中に伝えた。山里の自然に囲まれ静かに暮らしていた1人の女性を、ここまで駆り立てた背景に迫った。
<福島地検に提出した理由>
チェルノブイリの原発事故が26年前の1986年にあり、私はそのとき初めて原発の危険性が分かりました。そのなかで、福島県内に原発に反対するグループがいくつかできました。88年、そのいくつかあったグループが「脱原発福島ネットワーク」というゆるやかなネットワークをつくりました。そして一昨年、「ハイロアクション」という運動を立ち上げ、運転開始から40年経った福島第一原発を何とか廃炉にしようと考えました。
この2つのネットワークは、これまでも合宿を毎年していましたが、事故後も2回合宿をしました。そこで、「私たちはこれからどのような活動をしていけば良いのか」という話になりました。1つは被曝者援護法について、被害者が援護法の制定に対してどれだけ意見が言えるだろうかということ。もう1つは原発事故の責任を追及するということでした。
すでに去年、作家の広瀬隆さんとルポライターの明石昇二郎さんが責任者を刑事告発して、本も出されました。その本を読んで、「こういうことができるんだ」ということがわかりました。それで、刑事告訴をしようと考えたのです。今年2月に一度学習会をして、3月に結成集会をしました。そして6月11日、福島県民1,324名の告訴状を福島地検に提出しました。
広瀬さんや明石さんたちが東京地検に出した告発状がなかなか受理されず、明解な回答も得られていません。それで、どうすれば効果的な告訴ができるだろうかということを考えて福島地検に提出したのです。なぜ福島地検かというと、地検があるところが信夫山という非常に放射線量が高い地域なのです。そこで日々生活しながら家族もこちらにいる福島地検の方々も、私たちと同じ被害者なのです。
1人、2人ではなく、たくさんの人々が責任追及を望んでいるということを世の中に知らせていかなくてはいけないということで、今回1,000名という目標を立てました。まず、県内各地で説明会を開きました。また、小さなリーフレットをつくり仮設住宅にポスティングしたりもしました。
その後の学習会では弁護士も招いて話を聞き、とても盛り上がりました。そこで皆さんが口々に自分たちがどういう被害を受けているか、この1年間どれほど苦しい思いをしてきたか、どんどん意見が出ました。そこで、やはり責任はきちんと追及しなければならないという気持ちを新たにしました。
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<プロフィール>
武藤 類子(むとう・るいこ)
1953年生まれ。版下職人、養護学校教員を経て03年、福島県田村市で里山喫茶「燦」を開く。チェルノブイリ事故以来、原発反対運動に携わり、11年は「ハイロアクション福島原発40年」として活動を予定していた。福島第一原発事故発生以来、住民や避難者の人権と健康を守るための活動に奔走している。
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