2012年7月11日から14日にかけて北部九州を襲った集中豪雨で、詩人北原白秋の故郷として知られ、川下りで有名な"水郷柳川"と呼ばれる福岡県柳川市は、市内の3分の1が浸水するという甚大な被害を受けた。同市はクリークと呼ばれる掘割が網の目のように張りめぐらされ、総延長で930kmある。掘割は、上水道・農業用水路・洪水対策の貯水路として整備され、農業用水やかつては生活用水としても長らく市民に利用されてきた。その水の町として知られる柳川市が進めてきたこれまでの治水対策と、被災を受けての復興政策、そして行政・住民一体となった地域の再生について、金子健次柳川市長と、同市選出の椛島徳博県議会議員に対談していただいた。
――まず、今回の集中豪雨災害で柳川市は3分の1が浸水しましたが、被害状況はどのようなものだったでしょうか。
金子市長 今回の災害は、1953(昭和28)年の大水害で筑後川・矢部川が氾濫して決壊して以来になります。7月13、14日の豪雨によって、矢部川の支流である沖端川の堤防が150mにわたって決壊したのに続き、本流の矢部川右岸が50mにわたり決壊し、これまでにない甚大な被害を受けました。市の面積の3分の1が浸水し、約2,000戸が床上・床下浸水しました。住家の浸水被害には、多くのボランティアにご支援いただき、消防団員、市民、職員をあげて復旧復興を全力で当たっているところです。
――もともと柳川は、"水郷柳川"と言われる水の町とのイメージがあります。治水対策に関してはいかがでしょうか。
金子市長 柳川市は、矢部川、筑後川の最下流域にあり、渇水時、洪水時、いずれのときにも被害を受けやすい地域です。市内には930kmの掘割が網の目のように張りめぐらされており、渇水時期には貯水機能や遊水機能が働き、柳川市一帯がダムのような機能を持っています。1991(平成3)年の台風17号、19号のときは、高潮もあり、有明海の堤防の方も心配でした。満潮時には河川に排水できなくなるため、ポンプ場を設置して排水できるようにしています。
今回は、「昭和28年の水害よりひどい」と被害を受けられた方はおっしゃっています。大水害を教訓に日向見ダムが建設され、今回、流入量はマックス毎秒千トン。日向神ダムの放流はマックスで350トンですから、3倍くらいの水が押し寄せたことになります。もしダムがなければ、これ以上の被害になっていたと思います。
椛島県議 ちょうど、6月県議会で矢部川水系の水不足を取り上げました。矢部川本流はもちろんですが、支流の沖端川も水不足が起きています。柳川の観光の川下りにも水を使わせていただき、最終的には農業用水に利用され、有明海に流れていくという流れで、水の活用については、近年はとりわけ冬場の水不足について地域の要望としてあがっておりました。
ただ、如何せん、先ほどの市長の話にもありましたが、この地域は低地で、雨が降ると浸水、氾濫、決壊の危険が大きくある一方、雨が降らなければ、日向神ダムの運用規定では、厳しい規定のなかで梅雨期は、おそらく3分の2は放流してポケットとして貯める機能もあるわけです。その後の雨の降り方如何では水不足に悩まされることになると、そういうことがありましたので、6月議会で知事に対して、運用規定の見直しは難しいので、別枠で水源確保ができないものかとお願いさせていただいたところです。
今回、皮肉な結果として、梅雨期に今までに経験したことがないような量の雨が降ったものですから、もし日向神ダムがなければ甚大な被害になったことは間違いないと思っております。そういうなかで、干拓で広がった地域ですので、冠水防除、雨が降ったときに冠水するということが予測されていましたので、流れに関わって、県の施設としては15、国が5つ、柳川市に2カ所、強制排水の施設が有明海の沿岸部に、柳川市に設置されています。それが機能することで、干拓の地域で冠水した地域は今回1カ所もありませんでした。ただ残念ながら、そこまで流れ着くあいだに今回の決壊が起こってしまっています。
一方では、冠水防除事業で強制排水の設備ができたことによって、防災上の観点の対応はずいぶん進んできましたし、河川も当然ながら高潮対策から始まって河川の防災対策も鋭意進めており、今までは被害がありませんでした。
しかし今回は、それを遥かに超える雨量で、残念ながらこういうことになってしまいました。市長もおっしゃったように、どこが決壊してもおかしくないような流量だったと思います。
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