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小倉記念病院に暗雲 延吉院長退任"花道"が迷走(3)
特別取材
2012年8月20日 07:00

<日本初の心臓カテーテル治療>
 延吉正清氏が小倉記念病院に着任したのは、1974(昭和49)年のことだった。
 それから5年後の79(昭和54)年には、循環器科、心臓血管外科を増設し、心臓病センターが開設され、81(昭和56)年には、延吉氏が日本で初めて心臓カテーテル治療を行った。
 心臓カテーテル治療は、狭心症や心筋梗塞の患者に、血管に挿入したカテーテルの先端に取り付けた風船などを心臓で膨らませて、詰まった血管を広げる治療法である。心疾患は、日本人の死亡原因トップのガンに次いで多い病気だ。

<患者の命は常に"1分の1">
kokurakinebyoin_1.jpg 延吉院長は、その治療方法を日本に広め、世界でもこの分野の第一人者として、"神の手"を持つと称されてきた。今では、小倉記念病院だけでも、年間2,000人以上が心臓カテーテル治療を受け、多くの人の命を救っている。
 この治療法を始めたきっかけについて、「身体にメスを入れずに治療することで、患者さんへの身体への負担と経済的負担の軽減が可能だと思った」と語っている。
 それから30年余を経て、何人の患者を治療してきても、「目の前にいる患者はその人1人だけ。患者の命は常に"1分の1"だ」と、患者の命を預かる医師として自ら妥協を許さないと同時に、その信念を若手医師に諭している。

<治療技術の普及 医学の常識を打ち破る>
 小倉記念病院の延吉正清院長の地域医療へのこだわりと、最善の医療を追求する信念は、「小倉ライブ」にも反映されている。

 「小倉ライブ」は、1992年に第1回が開催され、心臓カテーテル治療の知識・技術の普及を目的にして始まった。"秘密の技術"として温存する傾向が少なくなかった医療分野で、治療の技術を普及したいという延吉院長の熱意が「小倉ライブ」の実現、継続につながった。「従来の医学の常識を打ち破るもの」(延吉院長)であった。

 延吉院長は「機器の使い方や操作方法を症例ごとに自分が治療室にいるかのような臨場感を持って体験することが可能」と述べ、「良い治療法が正しく普及し、全国の病院で患者さんが恩恵を受けることができるようになること」が目標だと語っている。
 同時に、地域医療への貢献、治療の拠点にしている小倉記念病院のある"小倉"から発信することへのこだわりも「小倉ライブ」には込められている。

<電撃発表前日、理事長室で決断>
 病院関係者の話によると、その今年の「小倉ライブ」が終わって4日後の6月7日、延吉院長は退任の決断を周囲に伝えていた。臨時職員会議で退任を電撃発表する前日、理事長室でのことだった。
 6月8日の小倉記念病院「臨時職員会議」での延吉正清院長の退任表明には隠された事実があると、連載第1回で書いた。
 それは、病院長の退任を表明したが、理事長職については一言も触れなかったことだ。その前日に退任の決断を周囲に伝えたときには、病院長・理事長をともに退くと明言していたことが、病院関係者への取材でわかっている

 2010年12月に移転新築した小倉記念病院は、13階建て延べ床面積8万平方メートル、鉄やコンクリートの材料を厳選し、最高200年の使用に耐える堅牢な造りに生まれ変わった。理事長室は、その4階にある。
 "新生"小倉記念病院の主(あるじ)にふさわしいその部屋に、延吉院長が事務長らを呼んで、理事・病院長の退任退職を表明したという。その後、運営委員を集めて、同日付で理事退任・病院長退職を願い出た。

 延吉院長自身の希望により、翌日(6月8日)に講堂で臨時職員会議を開き、職員に直接病院長退職を表明し、「残った人に頑張ってもらいたい」との思いを話すことを決めたという。

(つづく)
【特別取材班】

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