処暑が過ぎてもなお暑さが残る8月末、福岡市南区井尻に昇地氏を訪ねた。此処には日本で初めての障害者教育施設「しいのみ学園」がある。この学園の創始者として、昇地三郎氏の名前は、全国的に有名になった。
広島の師範学校を出て、昇地氏は大阪、堺で憧れの小学校教諭となった。同時に文才がめきめきと力を表し、受験参考書を次々と執筆、出版した。そして同地で結婚、長男、有道氏が生まれたが、1歳にならないうちに高熱を出し脳性小児麻痺になってしまった。障害児の治療教育を目指して、子どもを連れて広島文理科大学に進み心理学を、さらに福岡に移り九州大学医学部で精神医学を学んだ。この間、長男を受け入れてくれる学校がなかなか見つからず、苦悩の日々が続く。そして次男輝彦氏も同じ病に冒されたことから、「障害児を受け入れてくれる学校がないのなら、自分たちで作ろう」と決意。妻と2人、全財産を費やして福岡市南区井尻(旧・日佐村)に「しいのみ学園」を作った。生徒数13名の小さな学園だったが、劣等感を排し、心の美しさを尊ぶ昇地氏の教育により、学園はいつも笑いが絶えなかった。そして、学校への入学を疎んじられた子どもたちが、文字や数字にも興味を抱く学び舎へと成長した。
この姿を、昇地氏は得意の文才を活かして文章にし1954年に「しいのみ学園」と題して出版。これがベストセラーになり、映画にもなった。
「しいのみ学園」のはしがきには、学園設立の思いが綴られている。一部、抜粋してみよう。
「現代の医学ではどうにもなりません、ただ、親の愛情による訓練よりほかに方法はありません」、大学病院で、骨と皮になった長男に小児マヒと宣告されてから十七年、おどろきと失望から、ようやく愛と訓練とに堪えて、ほのかなる希望の光を見出していたところに、ああ、次男もまた小児マヒ――(中略)わが子のために――また、わが子と同じ恵まれぬ子どもらのために、妻とともに全財産を投じて、ささやかながらも一つの学園をつくることを決心した。それは長い間のいたましき親の悲願であった。そうすることが、哀れなわが子を救うただ一つの道であった。またわが子とおなじような世に見捨てられた薄幸の子どもたちが、少しでも救われていく一里塚となるであろうことを念願するのである。
ちなみに、「しいのみ学園」は、日本での出版後、歳月を経て、2002年に中国で翻訳された。この頃、中国では、まだ障害児を受け容れる「特殊学校」がなかったのだ。出版パーティーに訪れた長春で、翻訳者の金野長春大学教授と「中国にも『しいのみ学園』を」と意気投合。2年後には、長春市解放大路小学校に特殊学級を設立する準備が整った。8月には中国しいのみクラスが誕生。その後も互いの指導・交流は続き、昇地氏は何度も長春へ。07年には、解放大路小学校名誉教授校長に就任した。101歳になっていた。
障害児教育者として、日本のみならず海外でも活躍する昇地氏。教育者としての昇地氏を支えているのは、前回記した「障害重積深化過程論」をはじめ「十大教育原理」「小集団治療教育」の3冊の自著だ。しいのみ学園で笑いが絶えない理由、それは、昇地氏が劣等感を取り除くことこそが、教育だと考えているからだろう。「障害児は、心のケアをしないと、引きこもりや凶暴な反社会行動を引き起こすようになります。障害児の心は、劣等感を源として重積深下するのです」と、昇地氏は語っている。
劣等感を与えない――それは健常者にとっても大切な教育理論だ。
現代の学校教育では、競争意識を抑えさせることで、学生に劣等感を与えないように気配りをしているようだ。しかしいじめの問題は一向に後を絶たない。それとは違うかたちで子どもたちに劣等感を与えるような環境を作っているのではないだろうか。106歳にして、人のために頭を使い、穏やかな笑みを絶やさない昇地氏の姿を見ていると、ふと現代教育への疑問が湧いてくる。
昇地氏が劣等感を与えない方法として考案したのは「一緒におもちゃを作るなどして、閉ざされた心を開く」方法だ。それが、「昇地式 手作りおもちゃ・親子愛情物語」というテキストになり、現在、世界5カ国で翻訳出版されている。手作りおもちゃ教室を開くために、昇地氏の活動はますます盛んになった。
≪ (1) |
※記事へのご意見はこちら