――今回の水害だけでなく、昨年の東日本大震災もそうですが、今までの人知を超えた規模の、自分たち人間の想像を超えた膨大なエネルギーによって引き起こされる災害に対して、人間の弱さが明らかになったと思います。地域の再生という観点から、昨年の東日本大震災以降、多くの記者が現地へ取材に行きましたし、災害報道も増えていますが、いろいろなことを考えさせられます。
野田 やはり、「天には勝てない。自然には勝てない」ということを、改めて感じさせられる災害になりました。
先日、中川防災大臣も被災地視察に見えられて、各省庁が言っていたのは、「柔軟にやりたい」ということでした。今までの教訓から、縦割りの弊害や許可をもらわないと工事ができないといった問題がありましたが、それについては写真を撮って資料を用意してもらえば着工していい、ということでした。道路が寸断されてしまったところは、早く復旧しないことには、物資も運べませんし、生活ができないわけです。そのことは、大臣をはじめ各省庁も言っていましたから、心強いことです。
それから今回、苦渋の選択ではありましたが、民主党に残ったことが、ある意味ではよかったと思います。というのも、予算獲得などを行なうわけですから、いわゆる政権与党としてやらなければなりません。そこで、7月14日にいち早く現地に入り、14、15、16日と上流から下流まで、被災した箇所を見て回りました。そして、それをいち早く国に伝えることが私の役割だと認識し、17日に上京して、総理官邸はじめ、国土交通省、農林水産省、総務省を回って、2つのことをお願いしてきました。まず1つ目は、総理や各大臣に早く現地に入ってもらって、現地の状況を直に見てほしい、と。それから、現地の被災者の声を聴いてほしいというようなことをお願いいたしました。そして2つ目は、「激甚災害指定」を早くやってほしいということをお願いしました。
おかげで野田総理も、防災大臣にも現地に入っていただき、農林省も岩本司副大臣はじめ来ていただいて、迅速な対応をしていただきました。「激甚災害指定」についても、前政権(自民党)時代では、指定されるまでに結構な時間がかかっていました。それを「スピーディーにやっていこう」と、そして現地に入られたときに「激甚指定をやりなさい」ということを速やかに指示されました。これは与党の力です。激甚指定というのは、予算獲得ということですから。やはり予算がないと、県や市も、もちろん国も安心して工事ができません。
今回、地元・八女市が豪雨災害で被災し、その復興のために尽力してきましたが、これからも故郷のために、全身全霊で頑張っていこうという想いでいます。
――今後も故郷のための働きを期待しています。本日はお忙しいなか、ありがとうございました。
≪ (中) |
<プロフィール>
野田 国義(のだ・くによし)
1958年八女郡立花町(現在の八女市)に生まれ、農家の長男として広川町で育つ。福岡県立福島高校、日本大学法学部政治経済学科卒業。卒業後、代議士秘書として生の政治を身につける。93年、34歳で八女市長に当選。当時、全国最年少市長として、「八女のクリントン」と呼ばれる。改革派市長として行財政改革や市職員の給与カットに踏み込むなど労使関係の正常化に尽力。4期16年にわたり市長職を務める。市長時代は、全国市長会副会長、全国青年市長会会長などを歴任。09年9月の総選挙に民主党公認で出馬し当選。九州比例ブロックで当選。現在、民主党幹事長補佐、民主党福岡県連代表、衆議院農林水産委員会理事、民主党お茶議員連盟事務局長などを務める。
※記事へのご意見はこちら