現在地にある小倉記念病院の建設計画は今から6年ほど前、副院長だった延吉正清氏の下で静かに動き始めていた。理事や退職した関係者から、当時の経過を知ることができた。
<前院長「新病院を建てるなら引退する」>
当時、病院では、設計事務所を探すことから着手した。しかし、選定と言っても、ネットや電話帳を使った地道な作業である。
そもそも新病院建設に関しては、旧病院に老朽化が見られていたとはいえ、伴敏彦院長(当時)はそれほど前向きではなかった。しかし、「肩書きは副院長でしたが、すでに実権を握っていた延吉氏が強引に推し進めた」と当時を知る関係者は話す。
結局、伴院長は「新病院を建てるなら退く」と病院を去ったという。「伴先生はかわいそうだった」と、同関係者はつぶやいた。
そこに、設計事務所選定にかかわる会談がセットされた。
ある日、延吉氏が、(株)日建設計(本社・東京都千代田区)の理事を病院に呼び出したのだ。その理事とは京都大学OBというつながりで知り合い、この会談に至ったという。日建設計の起源は、1900年創業にさかのぼり、東京スカイツリーの設計監理を務めるなど、建築設計業界のエリート企業だ。この会談をきっかけに話はとんとん拍子で一気に進んだ。
「あそこは京大OBが多いので、信頼できる」。延吉氏の決断で設計事務所が決まったという。
<入札せずに業者決定?>
前出の人物は、「本来なら入札などの方法で複数の業者から決めるべきではないか」という疑問が病院内に漂ったが、従うしかなかったと語る。延吉氏に逆らうことは病院内ではご法度だったという。
建設が始まってからも、延吉氏は工事の内容や金額に異常な執着を見せた。照明の具合からタイルの柄まで口を出し、延吉院長は"おうかがい"を立てるように指示していたという。
また、施工業者の選定でも、設計事務所のときと同じく入札は行なわれなかったという。「いつのまにか清水建設に決まっていた」と振り返る。その後、延吉氏は、清水建設の幹部を月に2回ほど自宅に招待して食事会を開くなど、親交を深めていったという。蜜月ぶりから、一転して正式契約拒否、そして急転直下の関係回復。そこから、発注者・受注者を超えた、関西流に言えば、「でけてる関係」を勘ぐる向きも知らず知らずに醸造されていった。
<"交渉せんでくれ"と猛反対>
ある理事は当時を振り返って、こう語る。
「建築資材の高騰や下落があれば、工事代金にも反映させて変動させる契約だった。建築業界の慣行もそうなっていた」。
建築資材の値段は、2008年の北京オリンピックを機に急騰していたが、09年初めから急激に下落した。契約時は資材価格の上昇を見込んでいたため、実際の工事では、資材は大幅に安く済んだはずだった。1円でも安くさせるのが、病院の経営上利益になるのは誰にでもわかる。
そこで、延吉理事長に、契約どおり価格を安くするよう清水建設との交渉を提案したところ、信じられない反応が返ったと話す。
「『清水建設には一切言わないでくれ。せんでくれ、せんでくれ』と、あまりの激しい口調で、つかみかからんばかりに反対した。そこまで拒否されたら、何か事情があるのだろうと、それ以上口出しはできなかった」と、理事の一人として無念な思いをにじませた。
病院の利益よりも、清水建設の利益に配慮した延吉氏の存在は、あまりにも奇特だ。
「医療機器にしても、延吉院長は独断で3,000万円もする機械を入札もせずにポンと買う」と話は続く。「一体、これで病院経営が成り立つのか。ある程度以上の金額の購入は理事会の承認を得てすすめるべきだ」(同理事)
2012年4月から、500万円超の固定資産の購入などには理事会の事前承認制が導入された。
「しかし、延吉院長のワンマンを抑えるのが遅かった」(同理事)。
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