NET-IBでは、ツイッターを活用している橋下市長のツイートをまとめて紹介する。
橋下大阪市長の15日午前11時7分から16日午前10時43分までのツイートは以下の通り。
申し訳ありません。当該区役所の区長宛にツイートして意見して下さい。
RT @noritamorico: 何度も区役所に用事があれば保険福祉課に足を運んでいました。 何回も出向いて相談にいっていたのに、先日初めて『出してもらっていない書類があります』と、当初の保育所申し込み受付時点...(以降の文章はアカウントが消去されたため不明)
公務員優先にはなっておりません。今後入所者についての情報を開示していきます。これから保育ママの充実など図っていきます。区長ツイッターにお問い合わせを。
RT @noritamorico: 淀川区在住、シングルマザーです。 保育所に入れません。 公務員優先なのはおかしいと思いませんか
9月13日毎日新聞社説。文楽界の構造上の問題点についてやっと触れてくれた。これまでメディア、有識者、文化人は文化大切、文楽大切しか言わなかった。大切なのは百も承知だ。補助金制度のどこに問題があるのか。税の使われ方に問題があれば正していくのが政治の役割だ。
僕はいつでも話し合いを持つと言っている。ところが文楽協会側が、公開での話し合いを拒む。これでは一致点の探りようがない。メディアはいつも重要なことはオープンでやれと言う。まさか毎日新聞は、文楽だけはクローズ、密室で話を付けろとは言わないよね。
9月16日朝日新聞1面、2面。教育行政に関する記事。やっと新聞が教育行政の問題点について本格的に腰を上げてくれた。これはテレビでは無理な話題。テレビだと、教育への不当政治介入!で終わってしまう。新聞でしっかりと検証してもらいたい。しかし朝日は大混乱。グダグダになっている。これは朝日が、教育には政治が介入してはならない=政治的中立性を金科玉条として、このイデオロギーを死守することに全エネルギーを注いできたから。君が代起立斉唱条例のときと思考構造が同じ。教育行政についても僕は組織マネジメントの観点で考えている。権限と責任の明確化と政治と行政の役割分担。
教育と言っても、全てを教員が仕切れるわけがない。政治と言っても、それは住民レベル、首長レベル、国レベルで様々な政治がある。また政治の関与と言っても、関与のレベルも様々だ。このような現実を無視して、政治的中立性を絶対視すると、9月16日朝日のようにグダグダの論理になる。
文部科学大臣(政治家)、文部科学省(行政)、地方首長、教育委員会、学校、住民。教育行政には様々な関与者がいる。僕は、それぞれの関与者の権限と責任を明確化し、役割分担をしっかりやっていこうという立場。政治権力が教育内容に不当介入して権力崇拝させるのは絶対に阻止しなければならない。しかし政治が教育に一切関与しないなんてあり得ないし、現実様々なレベルで関与している。これは程度問題だ。ところが少しでも関与しようとすると政治の不当介入!と来る。これまでの朝日のように。
しかしそもそも文部科学大臣は、堂々たる政治家だ。そうなると文部科学省自体が政治そのもの。そして全国の教育委員会は文部科学省に右に倣え。だから世間で言われる教育の政治的中立性は、地方の政治には従うな!中央の政治に従え!という意味でしかない。政治的中立性は中央集権の言い換えに過ぎない。
僕は首長が教育行政の全てを仕切るべきとは言っていない。大きな目標や制度全般は首長が定めるべき。政治が作った制度の下で、政治が定めた大きな目標を達成する方法を考えるのが教育委員会。そして個々の学校運営は校長が権限と責任を持ち、保護者や生徒にも一定の関与を求める。これが維新の会の考え。
教育委員会や学校現場は、教育実践のプロだ。だから教育実践は教育委員会や学校現場の専権だろう。しかし、教育の分野も飛び越えて大きな総合的判断のもとに大目標を定めるのはやはり政治の責任だ。また制度自体の枠組みを変えるのも教育の専門家にはできない。ここは政治の出番。
さらに学校運営に関しては、校長が中心になるが、ここに保護者や生徒も関与させるべきだろう。今は、文科省をピラミッドの頂点として全国の教育行政が仕切られている。ゆとり教育か脱ゆとりか、全ては文部科学官僚の考え次第。もちろん国には国の役割がある。それは全国の最低水準を定めること。
その水準を超える部分は、各地方に任せれば良い。また全国的な水準維持のために、水準調査などをするのも国の役割だ。全国学力テストのようなもの。国の役割がはっきりしていないから、学力テストの実施もグダグダになっている。教育の政治的中立性!というイデオロギーでは何も解決しない。
朝日は、記事にある通り、「政治権力が教育を左右してはいけない」というイデオロギーの呪縛にかかっている。そこで思考停止。僕は政治権力で教育を左右するつもりはないし、議会・選挙・メディアのチェックも受ける。イデオロギーではなく組織マネジメント。教育行政が適切に実行されるための組織は?
国・地方、政治・行政、首長・教育委員会・学校・保護者のそれぞれの権限と責任、役割分担をどのようにすればいいのか。今はまったく整理されていない。その整理の試みを大阪でやっている。朝日はそれを政治権力の介入ととられているが、じゃあ誰がやる?教育内容の改正ではなく、制度の改正だ。
制度の改正まで、教育の専門家、またレイマンコントロールの素人がやれと言うのか。無茶苦茶な話だ。制度改革は政治にしかできない。その実施は、教育の専門家、教育委員会や学校現場での役割だろう。制度改正にはもちろん、教育現場の意見を聴く。しかし最後に決定するのは政治だ。政治は住民に責任を負う。このときの責任は、選挙で交代させられることだ。教育現場には交代がない。この特徴からそれぞれの役割が規定される。住民のときどきの判断に委ねていい部分と、委ねてはダメな部分。ここを仕訳できていないのが今の教育行政。
全てを教育現場に委ねよ、首長が口を出すな、教育の継続性を重視せよと世間知らずの学者は言うが、それは教育現場の都合の良い制度をそのまま認めよということと同義だということに気付いていない。文科省や教育委員会だけでは教育を仕切れる時代ではなくなった。朝日はこの現実を認めるところから出発だ。
役割分担については様々な議論があるだろう。ここに正解はない。大いに議論したらいい。しかし教育委員会が全てを仕切る。首長は一切口を出すな、そんなこれまでの朝日のイデオロギーでは何も課題解決につながらない。国・地方、政治・行政、首長・教育委員会・学校・保護者の役割分担。
国は最低水準を定め、その水準を維持。地方は地方の実情に合わせた水準。首長は大きな目標設定や制度全般の改正。教育委員会や学校が、その制度の下で首長の定める大きな目標を達成するために教育実践。学校運営は校長が権限・責任を持つが、保護者お一定の関与。
この大きな枠組みで権限責任を整理し、実践しようとしているのが大阪の試み。朝日も、その実態をきちんと記事にしているが、それが悪いことだと決めつけている。自分たちの、教育に政治権力は口を出すな!というイデオロギーのために。イデオロギーから離れて、組織論で検証、批判してもらいたい。
僕の考えは、一定の水準、目標を前提に、各学校が自律的マネジメントをする姿。各学校には保護者も関与する。まったくの無秩序はダメだから、国と首長が一定の枠をはめる。維新の会の教育関連条例に関しては、首長が教育現場を支配する!と散々言われたけど、全く違う。
この条例は、学校・保護者主体に改めようと言う趣旨。今の教育行政こそ、文部科学省の紙切れ一枚で、全国の教育委員会がざざーっと動く仕組み。この方がよっぽど怖い。こういう実態には朝日はまったく無批判。地方の首長より、文部官僚の方が信頼できると言うことだろうか。
また文科大臣が政治家だと言うことを忘れている。そもそも教育行政は政治家が関与しているのだ。国会議員はよくて地方の首長はダメと言うことか?地方の首長が全て仕切ると言うわけではない。役割分担だ。大きな目標については地方の首長が権限と責任を持つべき。教育実践は教委や学校。保護者も関与。
Twitter:橋下徹 (t_ishin) より引用(原文ママ)
※RT(リツイート)とは
ほかのユーザーのツイートを引用すること。
(例)RT @○○○ ABCD......
この場合、@○○○さんがツイートした「ABCD」を引用したという意味。
※記事へのご意見はこちら