「岩手の地形を表すには、握りこぶしを作ってみてください。四本の指が作る凹凸が、ちょうどリアス式海岸を示す形をしています」
岩手の観光案内を行なうガイド嬢は故郷の地形を親しみを込めて説明する。観光名所ともなっているリアス式海岸だが、その入り組んだ海岸線が今回は津波の被害を拡大させる一因になってしまった。津波が起きれば広い湾口で受けた津波が狭い湾奥に押し寄せて、さらには河口を遡る。過去、すでに3回の大津波が同じような形で当地を襲った。
明治三陸津波(明治29年)、昭和三陸津波(昭和8年)、チリ地震津波(昭和35年)。そして平成23年3月の大津波。
大船渡市の、湾岸近くにある廃墟ビルで、湾岸チリ地震津波のときの水域が表示された掲示板を見かけた。だいたい目の高さのところに津波到達水位の印がある。
こちらは、社屋が水没していく様子が生々しい映像となって全国区で紹介されていた「さいとう製菓(株)」の廃墟ビルに掲げられた今回の津波到達水位。見上げないと目に入らない。
惨事の傷跡を残す社屋。
同社は、被災の痛みを忘れないためにもこの廃墟社屋を残したままにしておくつもりだそうだ。周辺の更地も含めてメモリアルパークのような形で地域を整備、保存していきたいと考えている。
もちろん営業を停止しているわけではない。内陸地に移動して、全国にファンを持つ銘菓「かもめの玉子」をはじめとする菓子の数々を販売している。
移転して再建する会社もあれば、被害を受けた社屋を再建させていく企業もある。
大船渡湾岸に流れ込む盛川河口から約1.5km上流に建つガス匠企業、岩手工業(株)は、三方から押し寄せる津波によって3.5m浸水した。
三方というのは、一方は鉄道が防波堤になって水の浸入を防いでくれたからだ。
「不幸中の幸いでした」
と、熊谷孝嘉社長はおっとりとした口調ながらも、しっかりと語る。
「ほら、あの"構内禁煙"と書いてあるところまで水没しましたよ」と社長が指し示す。
津波に襲われた後は、本当に復旧の見通しも立たない状態だった。
岩手工業の業種は高圧ガス製造業だ。危険物を扱っているだけに、災害時の処置を誤れば、大きな事故に繋がりかねない。
だからこそ地震や津波が起きたらどう対処すれば良いか、日頃から常に話し合っている。震度5ぐらいの地震であれば慣れているとすら言う。今回も地震による避難には対処できた。
LPG容器再検査工場では、多数の容器が転倒したが、社員は慌てず、ブレーカーを落として避難した。アセレチン工場ではガスの充填作業中でガス漏れが発生したが、散水装置を起動させながら閉止作業を行ない、完了後避難した。
だが先述のとおり、大船渡湾に押し寄せた津波が、盛川に入って勢いを増し、1.5kmを遡ってきた。予想外の大津波だった。大津波警報が出た、と教えてくれたのは、避難途中の人々だった。
急いで高台に逃げだ。盛川を溢れた津波は、産業道路を越えて見る見るうちに社屋を浸水していった。方々から押し寄せてくる波がぶつかり合う様子を高台から茫然となって見つめていた。最初は驚きの声をあげることもできたが、次第と言葉も失っていった。
当時の様子
少し高台に通っていた三陸鉄道の線路が防波堤になってくれなかったら、もっと激しい勢いで濁流に飲まれてしまっていただろう。
幸いだったのは、社員全員が無事だったこと。
敷地の横には、三本の桜も奇跡的に残った。春には見事に花を咲かせてくれた。
熊谷社長は語る。
「ご家族や仲間を失われた人たちに比べれば、我が社は幸運だったと思います。でも、ご家族を亡くした方は"亡骸が見つかっただけでもありがたいと思わねば。まだ大事な方々の遺体が見つからないという人は、もっと辛い思いをしているはず"と言われるのです」
「今まで海と一緒に暮らしてきたのですから、海がやることを恨むつもりはありません。津波はこれからも来るんじゃないかと思います。だから、今回のことを一つの貴重な体験として受け止めたいと思っています」
「以前来た津波を、自分たちの世代は経験していません。今まで、年配の人たちが津波の話をしても、"来ないんじゃないの?"という気持ちで聞いていました。今回の経験で、津波はいつか必ず来る、という意識を持ちましたね。もしこの体験がなかったら、津波に対処する方法を後世に伝える世代が途切れてしまう。今の若い人たちにとっても、学ぶことが多かったのではないかと思いますよ」
しかし、その若者たちが、この地での労働意欲を失っているのではないか、と心配している。
「若い人たちに、この地域がダメだから東京に行けというのではなく、ここで生活を取り戻して欲しいと思います。でも、働く場所がなければ引き止めようもありません。一体どうすればいいのだろうと思うのですよ」
若者の人口流出は以前からあった。その問題は、さらに深刻な問題となっている。
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