「原発なくそう!九州玄海訴訟」の3次訴訟原告、人見やよいさん(51)は、東京電力福島第一原発事故当時、福島県郡山市で、両親と犬1匹といっしょに暮らしていた。今も郡山市に住むが、今年2月、人見さんの父親は亡くなって、母親(77)と2人暮らしだ。佐賀地裁での口頭弁論(9月21日)では、避難を決断できなかった葛藤を述べ、「一刻も早く遠くへ」という原発事故のセオリーを生かすことができなかった後悔を語った。
人見さんは口頭弁論後の報告集会で、「泣かずに最後まで話そうと思っていたんです。でも、金本(友孝)さんの話で去年のことを思い出して、こみ上げたまま話し始めました」と語った。
法廷では、何度も涙ぐみながらの意見陳述となり、傍聴席からもすすり泣く声が聞こえ、ハンカチで目を押さえる姿があった。
<寝たきりの父を連れて逃げることもできず>
人見さんの父は、数年前に脳出血を起こしてからベッドに寝たきりでほとんど動くことができなかった。「動けない父を連れて、どうやってどこに逃げればいいのかわからず、かかりつけの病院から離れることも不安で、そもそもガソリンが残り少なかった」。
避難地区は日を追うごとに広がり、友人たちが他県に避難していくのに接し、「血の気が引くようだった」と陳述した。家族を連れて動けない状態に、「直ちに健康に影響はありません」「安全です」との報道にすがりたい気持ちだったという。
寝たきりだった父は意識がはっきりしていて、ニュースを見て、原発事故も知っていたが、事故や避難の話は一言もしなかった。「もしかして父が自分のことを避難の足手まといと考えているかもしれないと思うと、それを父の口から聞くことが怖くて、わたしから避難の話をすることはできませんでした」と法廷で述べた。
<一見平穏な生活に「静かな恐怖」>
人見さんは意見陳述で、原発事故後の福島を「一見平穏に見えながら、静かな恐怖に包まれている」と表現した。樹木の下は放射線量が高く、春が来ても桜の木の下を歩くのがはばかれること、人見さんが入手したガイガーカウンターの初期設定では毎時0.3マイクロシーベルト以上で警告音が鳴り、それでは鳴りっぱなしになるので1.5マイクロシーベルトに下げて使用していること、すべての公民館に1台ずつ食品の放射線測定器が設置されていること...。
「どこまで注意すればいいのか。いつまで不安でいればいいのか。チェルノブイリでは今も『計って食べる』というのが日常だそうですから、この不安は一生続くと覚悟しています。みんな、将来への不安を抱えて疲れきっている」(人見さん)。
放射能による影響への不安を抱え、女子高生が「どうせ長生きしない」とか「私は子どもを産んでいいの」という声が出る状況を紹介し、「こんな思いは福島でおしまいにしてほしい」と語った。
<「山は青きふくしま 水は清きふくしま...」>
「山は青きふくしま 水は清きふくしま 忘れがたきふくしま...」。
人見さんは、「故郷(ふるさと)」という歌の「ふるさと」の歌詞を「ふくしま」に替えて読み上げた。「さよなら原発集会」でも読み替えて歌うことがあり、涙が止まらないという。
その福島は、2011年3月11日以降にカタカナで書かれることが多くなった「フクシマ」ではないことは、意見陳述を聞いた者にはよくわかった。
人見さんは、「福島の美しく、海や山の実りに恵まれた生活、10年後も20年後も100年後も平穏に暮らせるはずの生活は失われた」「まだ汚染されていないところは大事に残してほしい」という願いを語り、涙声でこう訴えた。
「原発事故で失われたものは、何よりも大切なふるさとです。私の一番の望みは、元の福島です。福島を返してください」。
人見さんの意見陳述が終わると、傍聴席から拍手が起こった。それは、人見さんだけでなく、意見陳述した4人の原告全員への拍手でもあったように思えた。
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