<創業者の意地と執念>
【ニッシン危うし】という評判が立つのは当然だ。数億円との焦げ付きと二大得意先の倒産で売上が激減すれば誰でも不安がるのは至極、当然である。この窮地でさすがだ。創業者・松永篤氏は≪意地と執念≫を発揮した。「不良債権の発生はすべて経営者である俺の責任だ」と事後処理に奔走したのである。銀行巡り、取引先廻り、資産売却などなど打てる手立てはすべて打った。この期間の過酷な闘いで体は蝕んでいった。
再生の目途がついたときに松永氏は本音を披露した。同氏は無類の車好きだ。木材業者には似合わない米車を乗り回していた。「コダマさん!!非常に悩んだよ。(愛車を捨てるか、維持するか)の判断に苦慮した」と語ったのだ。解説するとこういうことである。(1)愛車を乗り廻すと「こんな非常事態に松永氏は何を考えているのか!!」と反発される。(2)愛車を捨てて『トヨタマークⅡ』に乗り換えると「あー松永氏もとうとう車も維持できることができなくなるまでに厳しくなった」と見られる。両方のメリット・デメリットを計算した。
結果、「自分の性分を貫徹しよう」と決断した。愛する米車で関係者先に乗りつけて打撃の克服に東奔西走したのである。売上の落ち込みをカバーするために木材だけでなく新建材・住器類までを取り扱うようになった。縁起を担ぐ松永社長は会社商号の≪再々変≫にも着手した。新商号は【日進】である。再起完了の評価を得るまでには5年間の時間を擁した。1997年ぐらいまでかかっただろう。目途がついた矢先の1998年6月に実子の松永浩典氏を取締役に抜擢したのである。事業継承の目鼻がついた矢先に創業者・松永篤氏は癌で2001年10月に亡くなった。まさしく壮絶なビジネス人生であったと評される。【木材市場ビジネスのベンチャー】という存在だったのだ。
<輸入建材で復活>
創業者・松永篤氏は親分肌であった。この人柄に頼って各種多様な人物が集まってくる、情報も集積される。筆者も面識のあった大連出身の中国人がアプローチしてきた。「床材(フローリング)を扱いませんか?」という打診があったのが1996年頃であった。【日進】としてはようやく再起に漕ぎつけ、「次善策をどう打つか?」と思案中の時期であった。要は「中国でラワン・桜材を使用のフローリングを製造して日本に輸入しませんか」という提案であった。当時は輸入建材という用語が流行始めた時と一致する。
【日進】側も中国との木材輸入取引の実績はあった。だから危惧することなくこの申し出にフットワーク軽く対応した。筆者もこの大連人の案内で中国・昆明に視察に行ったことがある。床材製造工場はしっかりした商品管理が行き届いていた。宮崎県都城市の木材加工業者から技術者が指導派遣されていたのだ。この頃までは中国国内では「日本の製造システムに学ぼう」という謙虚な姿勢が保持していた。
【日進】は瞬く間に≪輸入建材ビジネス≫(フローリング販売)をマスターした。国内の販路も大手商社経由で構築した。同社は≪木材市場≫の業態から≪輸入建材商社≫へチェンジを図ったのである。ここでまた大きな適応作用を実現できた。このフローリング販売のピークは月商2億円にまで膨らんだ。第二創業期、繁栄の時期を迎えたのである
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