若戸大橋の50周年を機に、町おこしに取り組む若松・戸畑地区。洞海湾をはさみ産業都市・北九州を支えた両地区も、近年は新たな方向性を模索しながらの試行錯誤が続く。産業振興やまちおこしの取り組みに焦点を当ててみたい。
<洞海湾を囲む産業のまち若松・戸畑>
開通50周年を迎えた若戸大橋。その名の通り、北九州市若松区と戸畑区を結ぶ朱の大橋は、かつて東洋一の規模を誇り、北九州のシンボルとして市民に愛されてきた。
近年は、学術研究都市やエネルギー備蓄基地としてのイメージが強い若松区は、もともとは筑豊炭田から産出した石炭の積み出し港として発展した歴史を持つ。若戸大橋の袂に位置する、現・JR若松駅が開業したのは1891年。当時は、筑豊興業鉄道の石炭積出駅として稼動し、戦中戦後を通じて日本一の貨物取扱高を誇った。その恩恵を受けた若松地区は、北九州で最も早く発展を遂げることになる。しかし、エネルギーの主役が石炭から石油に移るにつれて積出駅としての役目を終え、80年代初頭には現在の旅客駅のかたちとなっている。
100年の歴史を持ち、我が国の近代化を中枢で支えた地区であるため、多くの文化も花開いた。『麦と兵隊』で知られる若松出身の芥川賞作家・火野葦平氏は、自伝的小説『花と竜』において若松男児の心意気を描き、若松駅を核とした洞海湾岸の中心市街地には、大正期の建築群「若松バンド」が今も残る。
他方、戸畑区といえば、教育施設と工場群によって発展を遂げたまちと言えよう。国立九州工業大学の前身となる明治専門学校が開校したのは1909年。安川電機の創業者で炭鉱王の安川敬一郎氏とその次男・松本健次郎氏らが、開校に際して尽力した話は余りにも有名。1921年に官立移管され、現在では国内屈指の技術力を誇る技術系国立大学として高い評価を受けている。
また、地域的には北九州のほぼ中央に位置し、区の面積の約45%を新日本製鐵八幡製鐵所をはじめとした工場群が占めるなど、北九州工業地帯の中核地区として機能する。今も残る新日鐵専用鉄道の「鉱滓線」(戸畑区と八幡東区を結ぶ)や、アールヌーヴ
| (中) ≫
※記事へのご意見はこちら