<拉致被害者は普通の生活をしていた>
当時13歳であった横田めぐみさんや、23歳であった有本恵子さんは何も海外旅行で危険な地域に行って誘拐されたわけではない。北朝鮮に侵入してゲリラ活動をしていたわけでもない。普通の中学生として国内で平穏に暮らしていたところを北朝鮮の工作員によって無理矢理、船に乗せられ連れ去られ、あるいは海外に留学していたところを騙して拉致をされたのである。
<拉致を解決する気概はあるのか>
家族会・救う会が掲げる今年のスローガンの1つに「北朝鮮が拉致を認めて10年。生きているのになぜ助けられない!」がある。このスローガンに込められた思いを、政治家は理解しているのだろうか。
「平和は訪れるものではない、自ら勝ち取るものである」という言葉を残したのは、広島に原爆が投下された昭和20年(1945)8月6日、ちょうど同じ日に空襲によって愛媛の実家と母親を失った若き建築家・丹下健三氏であった。
彼は戦後、広島平和公園や平和記念資料館の施設を設計した。このような悲惨な状況をなんとしても避けるためには平和は念願するものではなく、勝ち取らなければならないということを強く訴えるために、平和記念資料館から原爆慰霊碑、平和の塔と原爆ドームを一直線で見通せるように設計したと言う。丹下氏のこの想いがどれだけの日本人に理解されているかは定かではないが。
平和を叫び戦争放棄の思想を宣伝するだけでは、拉致事件だけでなく、領土問題も解決しないことは国際的な常識である。
しかし、日本ではこの常識が通用しない不思議な国家なのである。丹下氏が言うように、自らが勝ち取らなければならないという強い意志を持って行動しなければ、絶対に拉致事件は解決しないだろう。
昭和53年(1978)北朝鮮によって自国民4人(うち2人はのちに自力で脱出に成功)が拉致されたレバノンは、強硬なメッセージやあらゆる外交手段を通じて、拉致から1年4カ月後に残りの2人を取り戻している。
同じ主権国家として、レバノンの取った行為は日本政府とは大きな違いだ。見習うところ大である。
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<プロフィール>
濱口 和久 (はまぐち かずひさ)
昭和43年熊本県菊池市生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、民主党本部幹事長室副部長、栃木市首席政策監などを経て、テイケイ株式会社常務取締役、国際地政学研究所研究員、日本政策研究センター研究員、日本文化チャンネル桜「防人の道 今日の自衛隊」キャスター、拓殖大学客員教授を務める。平成16年3月に竹島に本籍を移す。今年3月31日付でテイケイ株式会社を退職し、日本防災士機構認証研修機関の株式会社防災士研修センター常務取締役に就任した。『思城居(おもしろい)』(東京コラボ)、『祖国を誇りに思う心』(ハーベスト出版)などの著書のほかに、安全保障、領土・領海問題、日本の城郭についての論文多数。5月31日に新刊「だれが日本の領土を守るのか?」(たちばな出版、現在第3版)が発売された。 公式HPはコチラ。
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