ラテン音楽の発祥地のひとつ、キューバ。教育水準も高く、音楽文化にも恵まれているにもかかわらず、経済的に困窮しているため、多くの民が豊かな才能を伸ばせずにいる。このことを憂い、100台のピアノを寄贈することをカストロ議長に約束し、実現させたのが歌手、ギタリストのアントニオ・古賀氏(以下、アントニオ氏)だ。故・古賀政男氏の直弟子として国境を越えた活動を行なう同氏だが、今、関心は日本国内に向いている。音楽を通して社会貢献するために無報酬で数々の団体の理事を務める同氏。少子高齢化社会を迎えた今こそ、音楽で社会を変えるときが来た、と力強く語る。
<古賀政男氏に愛された天才ギタリスト>
アントニオ氏は、福岡県大川市が誇る国民的な作曲家、故・古賀政男氏(以下、政男氏)の直弟子として、「古賀メロディ」と称される日本歌謡の名曲を現代に受け継ぐ名ギタリストだ。
政男氏は何人かの養子を持ったが、縁組に関係なく"古賀"という名を継がせたのは、アントニオ氏1人だけだった。アントニオ氏の方も、政男氏に惹かれてギターを始めた。8歳のとき、コンサート会場で、賑やかな楽曲の合間に政男氏が奏でた「荒城の月」に魅了されたのだ。さっそくギターを始め、師事した阿部保夫氏を介し、政男氏に引き合わされた。
才能を認められたアントニオ氏は、歌手としてデビュー。1960年代、ラテン音楽界のホープとして、知られるようになった。歌謡歌手としても人気を集め数々のTV音楽番組に出演。紅白歌合戦にも出場し国内での人気を確立。海外での音楽活動を通じて、国際的にも名を馳せるようになった。
政男氏は、音楽だけでなく、人として世の中に恥じぬ行き方をしなくてはならないと礼節をも指導してくれた。本当に息子のように思われていたのだろう、強く養子縁組を乞われたが辞退。その代わりに"古賀"姓を襲名し、古賀政男氏の遺産を国に寄附して創立した(財)古賀政男音楽文化振興財団の理事に就任して、古賀メロディを守っている。
<キューバでの栄誉、そして日本での闘病>
まさに音楽界のエリート的存在だが、アントニオ氏は芸術家であるより、芸人でありたいと公言して憚らない。同氏にとって、芸術家とは、芸を極めるためには日夜修行を積むために孤高であることを厭わない人だ。しかし、自分にはそこまではできない、という。なぜなら、人が好きで、人のために動くことが好きだからだ。
1995年、1台のピアノを寄附するためにキューバを訪れた。そこで見た子どもたちの光景は、同氏の心を急き立てた。あまりにも貧しいがゆえに、子どもたちが音楽を学べずにいるのだ。この状況を何とかせねばならないと、帰国後さっそく「キューバにピアノを送る会」を発足。2000年にはキューバを訪れ、カストロ議長にピアノ100台を寄贈することを約束した。その熱意は、日本の世間を動かした。外務省や草の根運動の協力を得て、03年に約束を実現。その他の音楽活動でも貢献し、08年には、キューバ政府から、ラテン音楽を通じた文化功労者として日本の民間人として初の「連帯大勲章」が贈られている。この間、結婚し、子どもも生まれた。3歳になっていた。
しかし同年、災難がアントニオ氏の身を襲った。胃がんに冒されていることがわかったのだ。すぐに手術をし、胃の5分の4を摘出したが、声も思うように出せないようになっていた。しかし、人間を愛し、人の幸せのために何かがしたいと行動し続けてきた同氏の治癒力には凄まじいものがあった。「子どものためにも死ねない」―その思いが、同氏を力強く立ち上がらせた。
09年、芸能活動50周年を迎えたアントニオ氏は、記念コンサートの折、大病を克服したことを世に公表した。胸中には、音楽を通じて世間をより良く変えていかねばならないという強い思いがあった。
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<プロフィール>
アントニオ・古賀
1941年生まれ。世界の舞台で活躍する熟練の歌手、ギタリスト。(株)A.Kプランニング代表として、音楽活動を行なう。8歳のときにギターを始め、日本を代表する作詞家、古賀政男氏の直弟子となる。日本ラテンアメリカ音楽協会 理事長、(財)古賀政男音楽文化振興財団理事、≪高齢者文化振興事業団≫(社)虹の会理事長など、多くの肩書きも持つ。
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