資金管理団体「陸山会」の土地取引をめぐり、政治資金規正法違反(虚偽記載)の罪で強制起訴されていた被告人、「国民の生活が第一」代表の小沢一郎氏(70)の控訴審で、東京高裁(小川正持裁判長)はきょう(12日)、1審の無罪判決を支持し、指定弁護士の控訴を棄却する判決を言い渡した。
1審判決は、土地売買公表の先送りや購入原資4億円の簿外処理について小沢氏(当時民主党代表)が報告を受け了承したと認定したが、それらを小沢氏が違法と認識していない可能性があり、故意だったとの証明が不十分で、共謀について「合理的疑いが残る」とした。
指定弁護人は一審判決には「事実誤認がある」として控訴していた。控訴審では、指定弁護士が、1審後に事情聴取した秘書経験者らの供述調書などを証拠請求したが、高裁はいずれも却下し、新たな証拠調べのないまま即日結審していた。
同事件は、検察審査会の2回に渡る「起訴相当」議決を経て強制起訴された。検察審査会という民意、国民の疑問に応える点では意義があった。また、強制起訴という制度については、公訴権と強制起訴との関係、指定弁護士に検察組織のような強力な捜査体制のバックアップがないなど、改善すべき問題が浮き彫りになった。
強制起訴といっても、証拠上公判維持も可能で起訴すべき事件なのに検察の恣意的運用によって不起訴や起訴猶予にすることがないようにチェックしたケースと、間接証拠しかなく検察が捜査を尽くして「嫌疑不十分」とした結論に対し民意を反映させたケースとは区別して考えたほうがいいだろう。
そもそも、「情況証拠」のみで小沢氏の共同共謀正犯を導くのには無理があったと言わざるを得ない。弁護人が「証拠にもとづかない想像」と指摘してきたように、刑事裁判において重要なのは、客観的証拠にもとづく公平公正な判断だ。
もちろん小沢氏には、刑事事件とは別に、政治家としての説明責任がある。しかし、2度に渡る無罪判決は重い。上告されなければ、無罪判決が確定する。その場合、刑事責任として「灰色だ」「潔白ではない」という論調は払拭されるべきだ。
市民感覚の反映は、裁判員裁判にみられるように司法改革の重要な視点の1つだったが、刑事裁判の最大の課題である冤罪防止という点では、市民感覚の反映が必ずしも有効に機能しない面もある。政治責任や道義的責任と、刑事責任は別物である。今一度刑事裁判の原点に立ち返った再検討が必要ではないだろうか。
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