<谷野頭取包囲網(26)>
堀部は労基署から支店に戻ると、早速2階にある支店長室から黒部人事部長に電話を入れた。堀部は、
「今日、労働基準監督署から呼び出しがあり行ったところ、署長、課長と紛争担当官の3名が出てきて、常盤支店の女子行員武 藤康代と東支店の武藤道代の姉妹が、6月4日に2人揃って休暇を取り、労基署に時間外手当の不払い申告をしたとの話が出た。それによると姉妹2人は昨年4月から今年6月末までの1年3カ月間、自分たちが作成した出退記録の表と給与明細書を持参し、出退記録と比べ、給与明細の時間外手当が大幅に少ないと訴えている」など、先程労基署で聞いた内容を説明した。
黒部は、
「4日と言えば、堀部支店長が常盤支店に赴任した日ですかね。そうすると2人揃ってその日に休暇を取って労基署に駆け込んだのは、支店長交代により時間外手当がうやむやになるのを恐れて、吉沢常務が引き継ぎをしている間に慌てて駆け込んだと思われますね」
と、堀部が考えていたことと同じ考えを口にした。
堀部は、
「明日こちらから資料を持って本部に出向こうと思うが、都合はどうかね」
と訊くと、黒部は、
「いや 私が明日そちらの方に参ります。東支店にも立ち寄って、支店長から妹の武藤道代の勤務態度などについても聞いてみたいと思います。その前に今日労基署であった話の内容の報告書と、姉妹が提出した出退記録表をファックスで送って頂けますか。この件が発端となり労基署が全行的に実態査察に入るようなことになれば、大変なことになりますので頭取まで報告を上げておきます。
ある地銀の話ですが、行員の奥さんが『主人の帰りが毎日遅いのに、残業手当がほとんどついていない。実態調査をぜひお願いします』と、労基署に投書で訴え、監督官がその支店の調査に乗り出すと、警備保障会社の記録や金庫の開扉及びパソコンの稼働記録などと突合すると、入出店記録簿と整合性がないことが判明。それを足掛かりに臨店を受け、全行的にサービス残業が行われているとの指摘を受けて、5億円を超える支払いを命じられた例があります」
と説明し、堀部に慎重な対応を求めた。
堀部は本格的に常盤支店長としての営業活動を開始した直後に、労基署から深刻な問題を突き付けられることになった。30年近く銀行員生活を送って来た堀部であったが、現役の女子行員が労基署に直接駆け込む事態に遭遇したのは初めてであったし、維新銀行にとっても初めてのケースのように思われた。
そう思うと常盤支店は一体どんな労務管理をしていたのかと、組合幹部出身でありながらこの様な事態を招いた吉沢前任支店長に対して、堀部は不信の念を強く抱くようになっていった。
※この作品はフィクションであり、登場する企業、団体、人物設定等については特定したものでありません。
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