<谷野頭取包囲網(33)>
沢谷は、
「ところで話は変わりますが、乳がん手術後の体調の方はいかがですか」
と問うと、栗野は、
「乳がんの手術の方は何とか回復に向かっているが、どうも足の方はなかなか良くならないし、苛々しているがどうにもならない状況だ。こんな状態だから谷野頭取の罷免さえ成功すれば、会長を退任しても悔いはないよ」
と、話す内容とは裏腹に意外とサバサバした声を返してきた。
沢谷が、
「既に過半数を確保しており、栗野会長の体調さえ良ければ福岡支店の原口取締役に声を掛けることもないのですが、相談役より絶対多数を確保するために原口君にも声を掛けておくようにと言われています。北野、川中の両常務の留任の確約を取り付けた後、福岡に行って原口君を説得するようにしています」
と言うと、暫く考える素振りを見せた栗野は、
「うん それでいいよ」
と含みのある言い方をした。
栗野が一瞬間を置いたのは、自分の立場を考えたからであった。栗野は、
「自分が退任すると言えば、谷野は北野、川中両常務の留任を認めるはずだ。そうすれば取締役会議において8対7の過半数は確保できる。しかも北野、川中の命運を握っているのは自分だ。今自分がキャスティングボートを握っており、病気で動けないハンディを活かすには、存在感を示しておく必要がある。すぐに原口君がこちら側について9対6の絶対多数となる事態は、少しでも遅い方が良い」
と考えたからであった。
栗野は何かを思い出すような仕草をしていたが突然、
「そうそう沢谷君、頭取交代の大義名分についての話しは出なかったのかね」
と沢谷に尋ねた。沢谷は
「今日のところはその話は出ませんでした。北野常務、川中常務が退任するようなことになれば、『TK計画』自体が危ぶまれる事態でしたから」
と話した。
すると栗野は、
「沢谷専務は、以前谷野頭取罷免後の新頭取に吉沢常務を推薦したそうだが、僕は谷野頭取と吉沢常務とは3才しか違わないので、交代の理由に大義名分がないと思う。この際思い切って最年少の古谷取締役を頭取にして若返りを強調した方が良いと思うが、君はどう思うかね」
と、問う言葉のなかには、沢谷に有無を言わせない響きが含まれていた。
続けて、
「君の方で、僕の考えをみんなに伝えてもらいたいのだが、それでいいね」
と言った。沢谷は
「栗野会長のこの発言は、谷本相談役の意向を受けたものだ」
と察し、何も言わずに、
「そのように伝えます」
と答えるのが精一杯であった。これによって谷野頭取更迭後の新頭取に、古谷政治取締役首都圏本部長を充てることが決まった。
※この作品はフィクションであり、登場する企業、団体、人物設定等については特定したものでありません。
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・「維新銀行 第二部 払暁」~第1章 谷野頭取交代劇への序曲(1)
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