<谷野頭取包囲網(34)>
谷本頭取の出社は朝9時少し前だったが、谷野は頭取に就任すると谷本より1時間近く早い、8時前から執務するのを日課としていた。それを知っている栗野は、休み明けの2月9日(月)早朝、維新銀行本店秘書室に電話して、谷野頭取への取り継ぎを頼んだ。
谷野が電話口に出ると、お互いに
「お早うございます」
と声を掛け合った。
栗野は、
「一寸早いかなと思いましたが、もう来ておられると思って電話しました」
と切り出した。
谷野が、
「体調の方はその後良くなりましたか」
と気遣うように尋ねると、栗野は、
「乳がんの方は切除だけだったので良くなりましたが、左足の方は相変わらずでご迷惑をおかけしています。実は今日電話したのは、先程から話に出ているように、右手は少し動くようになりましたが、左足は麻痺したまま動かない状態が続いています。医者は『焦ることはないですよ。そのうち良くなりますよ』と慰めの声を掛けてくれますが、これ以上維新銀行に迷惑をかけてはいけないと、最近つくづく思うようになりました。誠に悔しい限りですが体調が万全でないため、任期途中での退任を決意しました」
と話すと、谷野は、
「決して迷惑はしていませんよ。後のことは心配しないで、会長職に留まって療養を続けて下さい」
と、労わりの言葉を掛けた。
栗野は、
「いいえ このまま甘えるわけにはいきません。維新銀行の士気に影響しますし、これ以上迷惑を掛けることは自分としてはできません。従って、不本意ではありますが、改めて任期途中での退任を申し入れます」
と述べ、続けて、
「そこで私の退任後の人事のことになりますが、先日、北野常務と川中常務の退任の話が出ましたが、私が体調不良で途中退任し、その上2人の常務も退任するということになれば行内が混乱すると思います。今回の役員交代は、私だけに留めた方が良いと思いますが」
と、後任人事に触れる話し方をした。
それに対して谷野が、
「栗野会長の申し出は一応お伺いしておきますが、任期はまだ1年以上ありますし、退任されなくても良いのではないですか。電話ではなんですから、来週時間を見て改めて話を伺いに参ります」
と慰留の言葉を掛けて来たので、栗野は、
「では、私を含めた役員人事については、その時にじっくりお話ししましょう」
としか言えず、常務2人の去就についての結論も、翌週に持ち越すことになった。
谷野は、栗野が自身の退任と引き換えに北野と川中両常務の留任を申し出たことが、谷本相談役を中心とする守旧派が仕組んだ、谷野頭取罷免の『罠』であるとは知る由もなかった。
※この作品はフィクションであり、登場する企業、団体、人物設定等については特定したものでありません。
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・「維新銀行 第二部 払暁」~第1章 谷野頭取交代劇への序曲(1)
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