沢谷は谷野に向かって、
「お話があります。今、お時間を頂いて宜しいですか」
と話しかけた。丁寧な言葉遣いではあったが声は高揚して震えていた。谷野もまた4人の役付役員が押しかけて来たことに一瞬戸惑いの表情を見せた。しかしすぐに冷静さを取り戻した谷野は、「四人が揃って来るということは余程のことと思うが、先程取締役会議で話した『第五生命保険に関する調査』に関する件について、詳細を聞きに来たのかな。それとも他に何か別の目的でもあるのかな」と思い巡らしながら、"招かざる客"を応接室に通した。ロの字に置かれた応接室のソファのひとつに谷野が座ると、迎え合わせのソファに沢谷、吉沢が座り、右側のソファの手前に北野、その奥に川中が座った。
おもむろに沢谷が、
「お時間を頂いて有難うございます。今この様に4人が揃って来ましたのは、谷野頭取にお願いがあってのことです。少し長くなりますが我々の気持ちをお聞き下さい」
と谷野に向かって深々と頭を下げると、他の3人も後に続いた。
「何を言いに来たのか」と怪訝そうな顔つきの谷野を尻目に、沢谷は、
「この2年間本当によく頑張って頂きました。谷野頭取は赤字決算を決断し大量の不良債権の処理をされました。そのお陰で直後の金融庁検査は何ごともなく終わりました。本当に良くやって頂いたと思っています。また今年3月期決算で業績は急回復しました。これも谷野頭取が立派な経営手腕を発揮された賜物と思っております。
しかし昨年8月に発生した不祥事件以来、営業店には『これはしてはいけない。あれもしてはいけない。今は綱紀粛正だ。やれ法令遵守だ』の一点張りで、行内は暗いムードに包まれています。 また谷野頭取が就任されていろいろと内部改革をされていますが、あまりにも過激過ぎて多くの行員は付いていけなくなっています。この沈滞したムードを断ち切るためには、先ほど申し上げましたように、この2年間で業績も急回復されましたし、この6月谷野頭取は任期を迎えられます。丁度栗野会長も退任を予定されているようですので、お2人が揃って退任され人心を一新された方が良いと思いましてお話に上がりました」
と、谷野に自発的な退任を求めてきた。
それに対し谷野は、
「沢谷専務はもっともらしい言い方をされたが、私は維新銀行のために一生懸命やっているつもりです。私の営業判断で重大なミスを犯し、銀行に多大な損失を発生させたとか、また個人的に刑事事件を起こしたとか言うのであれば、潔く自ら身を引きます。しかしあなたが言われるように、ムードが悪くなっているからとか、改革が急激過ぎて付いていけないことを理由に退任を迫るのは、説得性に欠けるのではないですか。むしろ僕のやり方が悪ければ、あなた達、専務や常務は、忠告や進言する機会はいつでもあった筈です。そんなことを何もしないで、今ここでいきなり退任を迫るのは筋が通りませんよ」
と、強く反論した。
※この作品はフィクションであり、登場する企業、団体、人物設定等については特定したものでありません。
※記事へのご意見はこちら