<バブル時代に辣腕を振るう>
【組織内の人】と言えば、何かと【内弁慶】といったような否定的な見方で見られがちである。しかし、裏を返すと『外部の人たちとの腐れ縁がない、だから無私の断行できる力がある』となる。時代が変遷すれば、この【組織内の人】の要素がパワーになることを意味する。1995年を境にして、平成のバブル処理に追われ始めた。前記した杉浦・富重・後藤大先輩に見られる面倒見の良さは、福銀のファンを数多く増やすという功績を残した。ところが、債権処理が強いられる矢先に、偉大な先輩たちの手法での対処は無理だ。【無私の人】谷頭取の出番が来たのだ!!
93年常務、95年専務の出世の道を快走していたときと、バブル破綻処理の時期とが一致する。谷氏の培ってきた『バンカーの器量』が満開するチャンス到来となった。この頃から、【怪物としての伝説】が生まれてくる。債権回収の交渉には、自ら乗り出した。とくに有名なのは、福岡市役所関係事業・関係会社(たとえば博多港開発)の債権をめぐる攻防で、そのときの辣腕ぶりは福岡市組織内では語り草になっている。あの3代前の市長・山崎広太郎氏も「谷さんのバンカーとして使命感には、立場は違っていても感服する」と証言する。
福岡銀行の経営陣内では、「一刻も早くバブル処理を敢行しよう!!」という戦略決定をしていた。この決定を背景にして、谷氏は債権回収に奔走し実績を積んだ。結果を残せたのも、外部との腐れ縁がなかったからである。2000年の新世紀を迎えた際には、福銀は不良債権処理のメドを付けたのだ。その功労のトップに、谷氏がいた。その功労に報いるために、2000年4月には副頭取のポストが与えられたのだ。
2000年に他行よりもいち早く債権処理を完了した福銀は、優位な立場を築いた。これ以降の業績は急回復して、金融機関関係者に「よくまー、利益を出しているな」という感嘆と嫉妬の念を与えた。時代対応が遅れた佐賀銀行は、04年から05年にかけて取りつけ騒ぎが起きるまでの最悪の事態に陥った。福岡地区の貸し込み先の得意先に対して、掌返しで倒産に追い込んだ後手後手のツケが襲いかかったのである。その非情な仕打ちによって、福岡都市圏の佐銀ファミリー企業が皆無になってしまった。筆者は当時、「福岡銀行から5年遅れた田舎銀行である佐賀銀行は、福岡都市圏で致命的な信用を逸した」と断じた。
<2000年以降、福銀の業績は快調に走る 本店社屋も完成>
仮の話をしても始まらないが、バブルがもう5年(95年から97年くらいまで)続いていたならば、谷頭取の主役登場はなかったであろう。まだ旧来のお客の面倒を見る外交手腕が必要とされていた期間内では、谷氏の采配を振るう余地がなかったからだ。そういう意味では、強運の持ち主なのだ。1990年からバブルが弾ける歴史的大転換が始まったことで、谷頭取のキャラクターが頼りになったのである。
2000年以降、福銀は儲かり始め出した。とはいえ、利益が出たからといって、行員の給料を一挙に上げるわけにはいかない。世間の目を意識しなければならないからだ。そこで、各銀行支店の建て替えに着手した。メイン支店である博多支店も、ビルのリニューアルを完工させた。過去の経営陣が支援していた高木工務店の跡地を取得して、平尾支店を新築した。谷頭取は合理的な思考の持ち主であるが、律儀な一面もあることを証明したエピソードになる行為だ。そしてトドの詰まるところ、08年6月、中央区大手門に威容溢れる新本部(ふくおかフィナンシャルグループ大手門ビル)を建設した。2000年から2010年の間、同業銀行が悪戦苦闘している間に、福銀は新たな新社屋建設を平然と完遂したのである。まさに快挙だ。
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