谷野は運転手を先に帰していたので維新銀行通用口から表通りに出た。金曜日の夜であったが海峡駅前は華やかなネオンサインとは対照的に人影もまばらでひっそりとしていた。谷野はヴィアホテル前で客待ちをしていたタクシーを拾い、午後11時過ぎに自宅に戻った。
出迎えた妻の芳江から、
「遅かったですね。食事は済まされたのですか」
と聞かれ、
「いや 何も食べていないけどあまり食欲がないので、お茶漬けでも用意してもらえる」
と言って、別室でパジャマに着替えるとキッチンルームに戻って来た。
食事をする谷野がいつもとは違って、心なしか落ち込んでいるように感じた芳江は、
「お父さん、今日銀行で何かあったの」
と気遣うように聞いた。谷野は、
「いや 何もないよ」
とは言ったものの、その声は普段の声とは違って張りがなかった。その何気ない変化に芳江は、
「さっきからずっと塞ぎ込んでいるように見えますよ。お茶漬けだけで野菜などにも全然手を付けていないし、本当に何もなかったのですか」
と、再び心配そうに尋ねた。
谷野は一瞬、いずれわかることだから、今日あった出来事を言おうか言うまいかと迷ったが、こんなに遅くなって妻に伝えても心配を懸けるだけだと思い直し、
「いいや、今日はずっと会議が続いて疲れているだけで、心配することは何もないよ。今から風呂に入ってさっぱりしたいので、先に休んでいていいよ」
と、笑顔を繕いながら芳江に労いの声を返した。
食後、谷野は浴室でゆっくり湯船に体を沈め、静かに目を瞑った。すると今日訪ねて来た沢谷、吉沢、北野、川中の4人、それに谷本や栗野の勝ち誇った顔が脳裡に浮かび、怒りと共に悔しさがないまぜとなって涙が自然にこみ上げてきた。溢れ出る涙はゆっくりと頬を伝い、咽喉元から湯けむりのなかに吸い込まれるように消えていった。
谷野は今まで60年近く生きて来た人生のなかで、今日ほど屈辱的な日はなかった。確かに沢谷や吉沢から指摘されたように、谷本相談役や栗野会長に対して少し配慮は足りなかったかもしれないと思った。 しかし頭取となった谷野が谷本や栗野を遠ざける態度をとった背景は、「谷本が第五生命の一保険外務員に過ぎない山上正代の保険勧誘に異常にまで肩入れし、組合幹部出身者を通じて山上の保険勧誘に協力させ、その見返りに取締役に次々登用し、また谷野と同窓のS大学出身者で山上の保険勧誘に協力してきた栗野和男を会長に、古谷政治を若くして取締役に抜擢するなどの情実人事を繰り返し、その反対に山上の保険勧誘に協力しなかった良識ある多くの支店長を山上の讒言によって更迭するなど、維新銀行の人事が部外者の山上によって歪められている」実態を、まざまざと見せつけられたからであった。
※この作品はフィクションであり、登場する企業、団体、人物設定等については特定したものでありません。
※記事へのご意見はこちら