前日の海峡市は一日中快晴であったが、沢谷が訪問を告げた今朝は、日付が変わる夜半から曇り空となっていた。谷野の自宅は海峡市の水道局や私立の女学院が近くにあり、市道から石積みの階段を上った閑静な住宅地の一角にあった。自宅は谷野が頭取に就任する半年前、まだ専務取締役首都圏本部長時代に改装したばかりで、広い応接室を備えていた。
妻の芳江は昨日の夜、帰宅した谷野から沢谷たちが自宅に来ることを聞いたが、いやな顔一つせず、朝早く玄関周りと応接室の掃除をして来客を迎える準備をしていた。
午前中ずっと曇り空が続いていたが昼過ぎから急に暗くなり、ぽつりぽつりと雨が降り出してきた。やがて沢谷が訪問を約束した午後1時前には、これからの話し合いの行方を暗示するかのように、本降りの雨となった。
一方沢谷は、谷本相談役に谷野との面談の約束を取りつけたことを電話で連絡し、前回と同じメンバーで訪問することで了解を取っていた。
その時谷本は、
「あくまでも自発的な退任を促すように説得してくれないか。それが駄目なら行き着くところまで行くことになるが、恐らく谷野君の性格からすると説得は難しいとは思う。それでも要は誠心誠意、2度までも説得を試みたという実績を残しておくことが大切だからね。それに話し合いのなかで、谷野君が代表取締役を降りることを条件に、取締役として残る案を出しても決して認めないようにね。取締役で残しておくと、後々変な動きをされると困るからね」
と言った。
谷本がそのような台詞を吐いたのは、過去の経験に基づくものであった。かつて谷本は植木頭取から2度退任を迫られたがしぶとく生き残り、最終的に今回同様、植木に取締役会議での再任反対の動議提出をちらつかせて頭取の座を射止めており、その時の教訓から「今のうちに息の根を止めておかないと自分と同じようなことを谷野君もやりかねない」と思ったからであった。
谷本の了解を取り付けた沢谷は、西京支店長の吉沢常務、安芸本部長の北野常務、営業本部長の川中常務に、海峡市が運営する水族館「海峡館」近くにある海峡グランドホテルのロビーに、11時までに集まるように連絡を入れた。
集合場所の海峡グランドホテルには、市内に住む川中常務が10時過ぎに姿を現わした。川中は1階ロビーにある喫茶店に入り、海峡を挟んで対岸の門司港が見渡せる場所でゆったりとコーヒーを飲んでいた。すると程なくして沢谷、吉沢、北野の3人が入って来るのが見えた。
聞けば同じ新幹線に乗り合わせて新海峡駅から一緒にタクシーに乗って来たと告げられた。4人は打ち合わせを終えると、昼食を予約していた5階の和食レストラン「花瀬」に向かった。
※この作品はフィクションであり、登場する企業、団体、人物設定等については特定したものでありません。
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