<優雅な会社であったのだが>
25日(金)、【アエルコーポレーションが自己破産した】という情報が飛び込んできた。同社の会社所在地は東京都中央区銀座5丁目にある(代表:舘﨑直史氏、設立:1997年5月、資本金:3億8,200万円、最近の年商:3億2,000万円)。負債は約3億円である。
この自己破産申請のニュースを耳にしたとき、『たしかにM&Aビジネスの件数は減っているが、倒産の原因は本業以外の財テクの失敗ではないか』と直感した。一方では、『事業再生などを手がけてM&Aのコンサル事業をしてきた会社が倒産したとなれば、シャレにもならないな』とも思った。
M&Aといえば、上場している日本M&Aセンターの独壇場である。2013年3月期でも売上高65億円、経常利益30億円を叩き出す勢いのようだ。だから、決してM&A業界が絶不調ではなさそうだ。
アエルコーポレーション(以下、A社)は、調子が良かったときには「取り扱い件数は日本一だ」と、同社の舘﨑社長が静かに語ってくれたことを記憶している。たしかに2008年のリーマン・ショック以前、銀座2丁目にあるティファニー銀座ビルに事務所を構えていたときは、「優雅な会社だ」という印象を受けた。A社と弊社とのゴルフ対抗戦を行なう際にも、4名の社員を連れ立って福岡に飛んできていたものだ。
<山一證券組で会社を起こす>
舘﨑社長は1958年7月生まれの宮城県出身で、東北学院大学を卒業後、81年4月に山一證券に入社した。平成初頭のバブルが弾けた92年8月に、M&A専業コンサルタント(株)アライアンス取締役に就任する。97年、山一時代の心を許せる同僚たちにも声をかけて同社を設立して、代表取締役に就任した。舘﨑社長は、東北人特有の朴訥で粘り強い人柄である。証券マンにありがちな饒舌で厚かましさはまったく皆無である。口の堅さ、義理固さで、クライアントからは絶大な信頼を得ていたようだ。
このクライアントからの信頼ネットワークが、会社を設立してすぐさま役に立った。案件の紹介が相次いだのである。東証上場一部の外食産業の(株)京樽が会社更生法に申請した。1999年に、この会社の再生のために取締役として乗り込んだ。結果としては、吉野家ディー・アンド・シー、加ト吉と業務提携を結んだ。また、京樽の子会社を加ト吉のグループ企業に買収させることにも成功した。その後も吉野家・加ト吉との関係は続く。
同時に、これまた上場企業・北部通信工業が会社更生法を出したのだが、この再生にも深く関わった。97年から2000年にかけては、上場会社の倒産は多発した。事業を破産させるわけにはいかない。スポンサーを見つけて事業再生を果たす。M&Aの手法も、多様な切り口が生まれてきた。このような新局面では、金融機関は対応が遅れる。M&A専門機関の独壇場と化したのである。
<多様なM&Aの仕組みが花開く>
A社の実績パターンを整理してみると、京樽・北部通信工業は会社更生法による再生パターンである。京樽の100%子会社で王府井はDES(デットエクイティスワップ)を組み合わせ資本構成の最適化を計るケースもあり、このDES手法は東京地裁第一号案件となり、企業再生における手法の創出となった。加えること、中国四国地区最大のテーマパーク(株)レオマ(現株式会社香川県観光開発)の民事再生法による再生も成し遂げた。
A社の実例を挙げるまでもなく、多様なM&A手法が生まれた。ここでは字数の都合で割愛するが、(1)バイアウト投資、(2)M&A共同投資、(3)企業再生投資、(4)ベンチャー/デベロップメント・キャピタル投資などがある。05年頃まではM&A専門コンサル会社の優位が続いたが、その後は金融機関、生保関係の部隊が強くなってきた。
どうであれA社は、確実に『取り扱い件数日本一』を謳い文句に事業基盤を固めていった。その過程で、舘崎社長は社内に『ソリューション事業部』を設けたのである。これが自己破産の原因になるのだ。
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