日本政府は2月4日、航空自衛隊の次期主力戦闘機となる最新鋭ステルス機F35に関し、日本企業が部品製造に参加した場合、国際紛争の助長回避を目的とした武器輸出三原則の例外として認める方針を固めた。F35の導入予定国には周辺国との軍事的緊張が続くイスラエルが含まれるが、近く官房長官談話として「武器輸出三原則に『抵触せず』」とする見解を示す予定だ。
<三原則の誕生と変遷>
武器輸出三原則とは1967(昭和42)年に佐藤栄作首相が国会答弁で、「武器」の輸出は、外国為替および外国貿易法などにより経済産業大臣の許可が必要で、「(1)共産圏向けの場合、(2)国連決議により武器などの輸出が禁止されている国向けの場合、(3)国連紛争当事国またはそのおそれのある国向けの場合」の三例を示して武器を輸出しないと述べたことから、武器輸出三原則が生まれた。
その後、1976(昭和51)年になって三木武夫首相が、対象地域以外への武器輸出も「慎む」、かつ、武器製造関連設備も武器に準じて扱うなど、より厳しい規制を設けたことで、事実上一切の武器輸出が禁じられた。1981(昭和56)年には衆参両院本会議が、政府に武器輸出三原則の実効ある措置を採るよう求める決議を全会一致で可決した。
しかし1983(昭和58)年になると、中曽根康弘内閣は米国に対してだけは日米同盟上、武器輸出三原則を緩め、米軍向けの武器技術の供与を例外規定とする。2004(平成16)年には小泉純一郎内閣が、米国との弾道ミサイル防衛(MD)システムの共同開発・生産を武器輸出三原則の例外扱いとした。民主党政権下の2011(平成23)年、野田佳彦内閣が国際紛争回避の原則を維持しつつ、兵器の国際共同開発・生産に参加できるよう三原則を緩和し、第三国への売却も「厳格な管理」を前提に認めている。
<日本の防衛産業を守れ>
世界の趨勢は、軍事技術のハイテク化、装備品の高価格化が進むなか、自国のみで研究開発を進めることが困難となりつつあり、複数の国が最新技術を持ち寄り、共同で生産するのが国際的な潮流となっている。
ちなみに、日本の防衛産業は、規模として約1兆9,000億円、工業生産額に占める比率は0.7パーセントで自動車産業の20分の1に過ぎない。産業としても規模は小さく、防衛事業の占める比率が10パーセント以下という企業がほとんどであるのに対して、海外の軍需産業は事業規模自体が大きく、たとえばロッキード・マーチン社の売上は、日本の防衛産業最大手である三菱重工業の総売上げを超えている。
武器輸出三原則が足かせとなって、F35への部品の製造・輸出を拒めば、日本は技術を向上させることもできずに割高な装備品を単純輸入することになる。逆に製造・輸出することができれば、防衛産業の育成にも繋がると同時に、日本の安全保障を考える上で有益となるだろう。
<時代に合わせた見直しを>
武器輸出三原則を制定した時代と今日では背景が異なる。したがって見直すのは当然だ。F35への部品提供が武器輸出三原則の理念に抵触するかなどを議論するよりも、武器輸出三原則が時代に合致しているかを議論するべきではないのか。本来、部品であれ完成品であれ、製造・輸出するかは、国家にとって有益か否かで判断されるべきものだ。
日本の防衛技術力の低下を防ぎ、日本の安全保障の新たな基盤を支える体制を構築するためにも、今回の安倍晋三内閣の方針は大きな前進である。
<プロフィール>
濱口 和久 (はまぐち かずひさ)
昭和43年熊本県菊池市生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、民主党本部幹事長室副部長、栃木市首席政策監などを経て、テイケイ株式会社常務取締役、国際地政学研究所研究員、日本政策研究センター研究員、日本文化チャンネル桜「防人の道 今日の自衛隊」キャスター、拓殖大学客員教授を務める。平成16年3月に竹島に本籍を移す。今年3月31日付でテイケイ株式会社を退職し、日本防災士機構認証研修機関の株式会社防災士研修センター常務取締役に就任した。『思城居(おもしろい)』(東京コラボ)、『祖国を誇りに思う心』(ハーベスト出版)などの著書のほかに、安全保障、領土・領海問題、日本の城郭についての論文多数。5月31日に新刊「だれが日本の領土を守るのか?」(たちばな出版、現在第4版)が発売された。 公式HPはコチラ。
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