沢谷は同じ6階にある監査役室に足を運んだ。下田監査役は不在で、室内には大沢監査役一人しかいなかった。大沢は監査役室の応接室を使うことも考えたが、もし下田監査役が戻って来ると率直な意見が言えなくなるかもしれないと思い、午前中に川中常務と話し合った来客用の応接室を使うことにした。
ソファに腰を掛けると大沢は、
「わざわざ、お越し頂きまして有難うございます」
と挨拶をしながら、
「実は午前中、川中常務と2時間近く話し合いをしました。いくらかその話の内容について聞いていませんか」
と声を掛けた。
すると沢谷は、
「いいえ、店を出て直接ここに来ましたので何も聞いていません。どんな話し合いだったのか教えてほしい程です」
と咄嗟に答え、聞いていない振りを決め込んだ。
大沢は、
「代表取締役の人事権を集団で奪う行為は許されない」
と懇々と説明したが、沢谷は譲らず、
「一方的に我々の方が悪いような言い方をされますが、役員同士『和』を尊ぶ、維新銀行の古き良き伝統を崩壊させるような事態 を招いたのは谷野頭取の方であり、むしろ谷野頭取こそが自ら退任すべきです」と、川中と口裏を合わせる様な発言を繰り返し、大沢と沢谷との2時間以上に及ぶ話し合いも、平行線のまま物別れに終わった。
応接室を出た沢谷はその足で谷本相談役の部屋に向かい、少し遅れて応接室を退出した大沢は谷野頭取の部屋に向かった。
大沢がドアをノックすると、
「どうぞ、お入り下さい」
と、2人の話し合いを案じていた谷野の声が聞こえた。大沢は、「失礼します」と言いながら、自らドアにロックをかけて応接室に向かった。
谷野は、
「ご苦労様でした。こんなことになり大変ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」
と、大沢に向かって大きく頭を下げた。
大沢は、
「いやいや、あなたは頭を下げる様なことは何もしていない。大義名分のない浅はかな行為をしているのは彼らの方であり、許すことが出来ない暴挙です」
とまで言った。
谷野は、
「ところで話し合いはどうなりましたか。矢張り午前中の川中常務との話し合いと同じでしたか」
と、大沢の顔色を覗きこむようにして尋ねた。
大沢は、
「沢谷専務は川中常務とは会っていないと嘯いていましたが、2人は示し合わせていた様で話し合いは平行線のままでした。私の力が及ばず、誠に申し訳ない」
と詫びるように言った。
谷野は、
「とんでもないです。私の不徳の致すところで、かえってご心労をお掛けして申し訳ありません」
と言って、深く頭を下げた。
暫く考え込んでいた大沢は、
「このまま黙って引き下がるのは良くないので、先日言ったように、本部役員にはこのことを伝えておくべきです。谷野頭取、今から役員室に戻って梅原取締役、木下取締役それに小林取締役に、ここに来るように言ってもらえませんか」
と、谷野の決断を促すようにきっぱりした口調で言った。
※この作品はフィクションであり、登場する企業、団体、人物設定等については特定したものでありません。
※記事へのご意見はこちら