5月19日(水)朝、谷野は北九州本部長の石野専務に連絡を入れた。電話を受けた女子行員は、
「谷野頭取さんですね。石野専務は、只今別室で会議中ですのでお呼び致します。暫くお待ち下さい」
と優しい声を返して来た。
やがて保留となった受話器の向こうから、奈落の底へ突き落とされ阿鼻叫喚の心地でいる谷野に対して救いの手を差し伸べるかのように、「もしもし、お待たせ致しました」と、聞き慣れた石野の声が返ってきた。谷野は、
「会議中だったところを呼び出して申し訳ない。今までずっと黙っていたけれど、大変なことになった」
と一気に話し掛けた。石野は、「大変なことが起きたな」とは直感したが、いつもは冷静な谷野が具体的な内容について触れていないのに気付き、話を遮るように、
「谷野頭取、大変なことが起こったと言われましたが、一体何が起こったのですか」
と聞き返した。
谷野は、
「ごめん。実は先日沢谷専務、吉沢常務、北野常務、川中常務の4人が押しかけてきて、僕の任期がこの6月に来るので自発的に退任するよう迫って来た。もし応じなければ過半数を押さえているので、取締役再任に反対する動議を提出して罷免すると脅して来た。それでどうしたら良いかとずっと一人で悩んでいたが、一昨日大沢監査役に相談したところ、本部役員には知らせた方が良いと言うことになり、昨日梅原取締役、木下取締役、小林取締役を交え5人で話し合った結果、石野専務にも声を掛けた方が良いと言うことになりました」
と、やや落ち着きを取り戻した話し方になった。
石野は、「こんな大事なことを何故、もう少し早く言ってくれなかったのか」と心の中で呟いたが、「頭取、昼からのご予定はどうなっていますか」
と尋ねた。
谷野は、
「特にないので何時でも良いよ。東京から大沢監査役が6時過ぎに帰って来るので、その後再度話し合いをすることにしている」
と伝えると、石野は、
「もちろんそれには出席させて頂きますが、その前に詳しくお話をお伺いしたいので、4時前にそちらに行くようにします。それで宜しいですか」
と尋ねると、谷野は、
「待っています。直接頭取室に来て下さいね」
と、普段の声になっていた。
一方、木下取締役は、福岡支店長の原口を説得するため携帯に電話を入れた。
「原口取締役、あなたは谷野頭取の再任に反対する動きをしている様だが、考え直した方が良いよ。それで明日そちらに行って是非話をしたいので、空いている時間を教えて下さい」
と尋ねると、原口は、
「明日は一日中不在ですので、来られも無駄ですよ」
と、その場しのぎの言葉を返して来た。
木下は、
「原口取締役、良いですか。あなたは谷野頭取から指名を受けて取締役に抜擢されたのですよ。そのことは維新銀行の行員はみんな知っています。それなのにその恩を忘れて谷野頭取を罷免する方に加担すれば、あなたは人間性を問われますよ。あなたの場合は他の役員とは立場が違いますよ。せめて棄権でもするのならまだ救われますが、もし谷野頭取を罷免にする立場を鮮明にすれば、『裏切り者のレッテル』を貼られ、維新銀行では誰からも信用されなくなりますよ。それでも良いのですか」
と畳みかけた。
※この作品はフィクションであり、登場する企業、団体、人物設定等については特定したものでありません。
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