堀部は迎えの車でいつも通り午前7時45分に自宅を出た。空港前の道路を右折すると化学工場に向かう従業員の車で多少混雑はしたが、それを過ぎると車の流は良くなり、15分後に常盤支店に到着した。行員の「お早うございます」の声に、堀部は大きな声で「お早う」と笑顔で応えたが、いつもの朝とは違う高揚感が体全体に漲っていた。
ラジオ体操を終えると8時45分から朝礼が始まった。次長から、
「支店長は本日役員会が12時からありますので、稟議関係で急ぐものがあれば至急提出するようにお願いします」
と伝達してもらったが、特に急ぐ案件は上がって来なかった。午前9時シャッターが上がるのを待って、支店長以下行員一同、一斉に来店されたお客にお辞儀をして、5月21日(金)の営業は平穏にスタートした。
一方「経営委員会」(以下:経営会議)が開催される維新銀行本店の6階は早朝から慌ただしさに包まれていた。9時から開催される会議に出席するため、本部管掌役員は7時30分過ぎには全員顔を揃えていた。谷野は一人頭取室に入り、役員室には常務の川中、取締役の梅原、木下、小林の4名が入室。室内は呉越同舟の重苦しい雰囲気が漂うなか、互いに話を交わすこともなく、それぞれが今から展開する『谷野頭取更迭劇』への思惑を胸に秘めて待機していた。
また前日から本店近くの東急インに宿泊していた沢谷専務取締役東南支店長、吉沢常務取締役西京支店長、北野常務取締役安芸本部長、古谷取締役首都圏本部長の4名も、8時にホテルを出ると一緒に6階の相談役室に向かった。応接室には既に、谷本相談役と役員室に居たたまれなくなった川中常務の2人が控えていた。
谷本相談役を囲んで沢谷達が最後の打ち合わせに入ろうとした時、入口付近から大きな物音が聞こえて来た。一同の目に飛び込んで来たのは金剛力士像を彷彿させるように、松葉杖を突いた栗野会長の姿だった。
栗野はゆっくり谷本相談役の前に進み、
「お早うございます。こんな無様な格好で申し訳ございません。何が何でもとの思いでこうしてやって来ました」
と述べ、5人の取締役に向かって、
「やっと待ちに待ったこの日がやって来た。全員で力を合わせて、お世話になった谷本相談役のために頑張りましよう」
と、やや興奮気味に話しかけた。
谷本は、
「栗野君、ここに来るまで用意が大変だったろうね。今日一日頑張って下さいね」
と労いの言葉と同時に、短い時間ではあるが栗野を交えて、『谷野頭取罷免』の最終的な役割分担の確認が始まった。
ちょうどその頃、6階に着いた北九州本部長の石野専務は、1人で頭取室にいた谷野のもとへ足を運んだ。
※この作品はフィクションであり、登場する企業、団体、人物設定等については特定したものでありません。
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