<現在も続く避難生活>
阿武隈山系に開けた福島県相馬郡飯舘村。人口は約6,000人、名産の飯舘牛は約3,000頭。東日本大震災の前は、自然豊かな農村風景が広がる美しい村だった。しかし、福島第一原発事故により運命は変わった。村民全員の避難を余儀なくされ、1,700世帯だった村が、3,100世帯に分断された。震災から2年を迎えた現在も、故郷、家族と引き離された村民の避難生活は続いている。
政府の「計画的避難区域の見直し」により、1カ月後に避難を開始。「年間20ミリシーベルトを超えるから避難してくれと言われた。避難する時は悩んだ。村民の生活をずたずたにしていいのか」と菅野典雄村長は振り返る。飯舘牛を何頭も飼育していた酪農家が多く、すぐには避難できない状況だったため、全村避難は1カ月近く遅れた。
安心と安全は違う、放射能が危険なのであれば避難したいという声がある一方で、放射能のリスクはあってもこれまで通り飯舘村での暮らしを続けたいという声もある。何が村民にとって真の幸せか―。全村避難を決断する際、「命か、暮らしか」の二択を迫られた。苦悩のすえの全村避難。「無用の被ばくを招いた」などの批判も受けたが、飯舘村への愛着、故郷への愛を貫く菅野村長の姿があった。
<命か、暮らしか>
6日、日本外国特派員協会で会見を行った飯舘村の菅野典雄村長は、「村から1時間ほどのところに多くの村民が避難している。精神的な痛み、肉体的な辛さが、ボディブローのようにきいてきている。放射能の危険さと、村民の日常生活の継続。そこのバランスをどのように取るか。非常に難しい」と、避難生活の辛さを吐露した。
放射性物質がどれほど命をむしばむのか、そのリスクのほどが分からぬまま、危険性ばかりを重く見て、職業や土地、住居、飼育していた牛などそれまでのすべてを捨てて避難すべきなのか。原発事故後の対応に追われる過密な日々の中で、菅野村長の肩には、村民の命と暮らしを預かる責任が重くのしかかった。
| (2) ≫
※記事へのご意見はこちら