<「放射能を適切に怖がる」>
放射能による害をどこまで怖がるべきか、科学的な知見が完全に得られているわけではなく、明確な線を引くことは非常に難しい。
ウクライナのチェルノブイリと、日本でしか経験していない原発事故。先例が少ないことに対して、「どこからどこまでが人間の健康にとって危険か」というラインを引かなければならない事態だ。
安心安全な場所で暮らせるに越したことはないが、逆に、放射能のリスクを重く見すぎて、避難生活が長引けば、ストレスや普段の暮らしができないことにより、違った意味で健康に害を及ぼすことがある。無用な不安は、できる限り、少なくしなければならない。
<行政と住民のリスクコミュニケーション>
行政としては、国際的機関や専門家の示す数値によって、「ここから先は危険」(避難指示の基準は、年間被ばく量20ミリシーベルト)という線を引くしかない。もちろんその線は、個人個人の事情を鑑みて出された数値ではない。日本原子力文化振興財団が出したレポートには、「(年間被ばく量20ミリシーベルトという数値は)避難や除染を効果的に進めるための目安とする線量であり、被ばく量の限度や安全と危険の境界を示すものではありません」と書いてある。
小さな子どものいる家庭にすれば、子どもの健康を優先し避難したいと思う家族が多いだろう。故郷に長く住み、愛着を持っているお年寄り、高齢者にとっては、逆に避難することで、住み慣れた村を離れる避難生活の辛さや過度のストレスから心身に害を及ぼす可能性もある。
放射能が健康に害を及ぼすことが分かっていても、住み慣れた故郷を離れたくない人もいる。個人によって、事情は違う。
「放射能を適切に怖がること。そのバランス。どのように"正しく怖がるか"という取り組みを続けていく。怖がり過ぎても体に悪い。長く避難している人たちの心のケアは心配です」と飯舘村の菅野村長は語る。
命か、暮らしか――。行政と住民の間で、密にコミュニケーションを図り、合意を形成していくことが必要になってくる。
リスクコミュニケーションの必要性は、大気汚染のPM2.5のケースにも当てはまる。住民、行政機関、専門家らの間で、「どこまで怖がらないか」の合意を作っていくことは、今後、必要になってくるだろう。
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