自民党元副総裁の山崎拓氏(近未来政治研究会最高顧問)に、安倍内閣と日本の針路について、(株)データ・マックスの児玉直代表が独占インタビューした。山崎氏が、政治経済、外交で日本のとるべき"本道"を語った。
<炭鉱後始末から政界入り>
――山崎先生の人生は、ドラマの渦中に生きた人生。ご自身ではどう思われますか。
山崎拓・自民党元副総裁(以下、山崎) 自分でもそう思う。波乱万丈だった。政治家になる前からいろいろなことがあり、とくに20代のとき祖父が経営していた炭鉱が倒産し、その後始末をした。1967(昭和42)年、ちょうど30歳で政界に入った。炭鉱の後始末のときにさまざまなことがあったが、今振り返ると若かったからできたと思う。若さとはすごい力だ。政治家になって46年、今までの人生の6割だ。
――福岡県議会議員は1期ですか。
山崎 県会議員は1期だけで、1969(昭和44)年に総選挙に出馬したが落選し、1972(昭和47)年に初当選した。小泉純一郎も細川護煕も最初の選挙では落選している。
――福岡2区の後継者には鬼木誠さんがなったが、後継者は鬼木さんと決めていたのですか?
山崎 必ずしもそう思っていたわけではない。私は俗物なので、後継者に修猷館出身を出したかった。修猷館高校、早稲田大学出身といえば、なんといっても緒方竹虎、中野正剛。私は、その衣鉢を継ぐつもりで衆議院に出たから、その流れを断ちたくなかった。鬼木氏は福岡出身だが、ラ・サール高校、九州大学卒業で、優秀だが後継者としてはちょっと違うなという気持ちが、私のような修猷ナショナリズムを信奉する俗物の本音だった。
――今、修猷館出身者も大半は、子息は私学に行きますね。先生のところは。
山崎 修猷館高校の校区は福岡3区で、僕の2区は筑紫丘高校。娘たちも修猷館に行きたかったけど、教育委員会が「(修猷館校区内に)家を借りてください」と言う。下宿して通えばいいと思ったが、娘たちは「そこまで迷惑をかけられない」とやむなく筑紫丘高校に通った。昔は、修猷館にどこからでも行けたのだ。おかげで今政界には、残念ながら修猷館出身者はほとんどいなくなった。
――40代以下では修猷館高校出身の政治家は少ない?
山崎 民主党で、神奈川9区に民主党の笠浩史がいるくらいだろう。一番多いときには、旧福岡1区の5人区で修猷館高校出身が7人立った。楢崎弥之助、辻英雄、福田敏南、内藤武宣、有田誠らが、ずらっと。そのときは楢崎弥之助氏と自分だけが当選した。その後出てきた山崎広太郎、篠田栄太郎、吉田剛太郎らも、全部、私の後輩だ。それが反旗を翻して「先輩を倒せ」と立候補したので、そのときは私もノイローゼになった(笑)。
<安倍内閣・新議員 AAライン以外は経験がない>
――先生が代議士になられた昭和47年から幾何十年、昨年末、新議員がたくさん誕生したが、どういうことを感じますか。
山崎 若い人には若い人の持っているエネルギーや時代感覚などに素晴らしさがあるが、政治経験は乏しい。世代間のバランスが必要である。119人も当選したが、大体若い。異常にすそ野が広い人的構成で、上が少ない。当選回数の多い人が内閣に入っているが、これも経験が乏しい。閣僚経験のなかった人がたくさん内閣に入った。この内閣は、総理大臣経験者の安倍、麻生の両氏が目立っていて、この2人の光り輝く存在のためにほかは視野に入らない。あとは甘利明内閣府特命担当大臣と菅義偉官房長官くらい。前回総裁選に立った石原伸晃、林芳正も含めて、2人のAA(安倍・麻生)ラインの輝きのために色あせている。石破茂幹事長も一生懸命目立とうとしているが、力不足だ。したがって内閣はいずれ脆弱な部分が露呈する。安倍、麻生の両氏が強気になりすぎて靖国神社参拝などで中韓両国との関係を悪くする。2人が馬脚をあらわすと、全体がドンといく。「すごい内閣」と言っているが、政治経験のない者ばかり。稲田朋美行政改革担当大臣も経験がないし、党の側では高市早苗政調会長、野田聖子総務会長も経験が足りない。野田聖子さんはNHKスペシャルで、自分のお子さんの話をしていた。人情話ではあっても、政治の本筋ではない。日本の政治を引っぱっていく話ではない。美談で、私も感動し、彼女の宣伝にはなったけど。それだけでは総理大臣をやらせようという話にはならない。
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