この5月上旬、都内、護国寺にて「チベット・フェスティバル」が開かれた。はるばるインドから僧侶ら28名の関係者が来日。チベットの僧侶による「砂曼荼羅」の制作は世界平和と東日本大震災の追悼や東北の復興を願うもので、多くの来場者の心をつかんだ。中央チベットの4大寺のひとつ、タシルンボ寺の僧侶たちによる厄除けと生きとし生きるもの幸せを願う仮面舞踏(チャム)は圧巻であった。
しかし、このタシルンポ寺の指導者であったパンチェン・ラマ11世法王は1995年に中国政府に拉致されたままで、現在も行方不明だという。ダライ・ラマ法王日本代表部のラクパ代表によると、今日に至るまでチベットでは焼身自殺者が117名に達し、各地で暴動が頻発している、とのこと。こうした悲劇が相次ぐ理由は何だろうか。チベットの文化に触れながら、絶滅の危機に瀕する民族や歴史の厳しい現実に思いをはせることにもなった。
実は、チベットにおける状況は厳しい報道管制や情報管理が行なわれているために、その実態はなかなか外の世界には正確には伝わっていない。しかし、チベットの人々と直接対話を重ねると、中国によるチベットの漢民族化に対する抵抗や反発が大きくなっている背景が浮かび上がってくる。
中国政府の受け止め方は、「中国にとってチベットは中国の一部である。ゆえにチベット人を中国に同化させることはチベット人の生活をより豊かにすることになるはずだ」というもののようだ。しかしこれはチベットの人々の抱く感情とは、まったく相いれないものであろう。
問題はこの違いを縮めたり埋めたりする努力が、双方に欠けていたことではなかろうか。チベットでは7世紀から21世紀までの長い歴史を通じて、精神世界と政治の世界が一体化していた、といっても過言ではない。そうした伝統や歴史に対して、中国政府は十分な理解や配慮を示そうとはしなかった。
一方、チベットでは精神世界と現実の政治の橋渡しのできる指導者を常に求めていた。当然のことながら、激しい衝突が巻き起こる。本来であれば、チベットと中国の双方がお互いの違いを乗り越えるために、柔軟な発想で対話を積み重ねるべきだった。
翻って、7世紀のチベットは現在のチベットとは違い、王国制度の下で国王が巨大な権力を有していた。また強大な軍隊も傘下に収めていたものである。今日のような仏教の教えを中心とする社会とは、かなり様相を異にしていたわけだ。チベット王国の側から中国に対して戦争を仕掛けるようなケースも、多々あったといわれる。そのため歴代の中国王朝はチベット王朝に対して、中国の王家の妃をチベット国王の下に嫁がせる、というような懐柔工作にも取り組んでいたほど。それゆえ仏教徒の国でありながら、中国からの妃を受け入れ一夫多妻制をとっていた時代もある。
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<プロフィール>
浜田 和幸(はまだ かずゆき)
参議院議員。国際未来科学研究所主宰。国際政治経済学者。東京外国語大学中国科卒。米ジョージ・ワシントン大学政治学博士。新日本製鉄、米戦略国際問題研究所、米議会調査局等を経て、現職。2010年7月、参議院議員選挙・鳥取選挙区で初当選を果たした。11年6月、自民党を離党し無所属で総務大臣政務官に就任し、震災復興に尽力。現在、外務大臣政務官と東日本大震災復興対策本部員を兼任する。
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