我々は、なぜせっかくの命を享受できないのか。何が我々の『野生』を衰退させているのか。人間らしく感じ考えることがどんなもので、それはどのように回復できるのか。次の世代が空虚感に蝕まれてしまわないために、我々に何ができるのか・・・。その解決の糸口を本書は暗示している。
生物の頂点に君臨する我々「霊長類」の『理性』は、ここに来て、あちこちでほころびを見せ始めた。最高水準の知性が計画したはずのサブプライム・ローンが破綻してリーマン・ショックが起こり、次々に開発された抗生剤は厄介な耐性菌を生み出し、ワクチンによる対策を声高に行なえどもウィルス感染症はパンデミック(世界的流行)の恐れをはらむものになり、がん検診を行なえば行なうほど、あべこべにがん患者数が増加している。識者の想定では安全なはずの原子力発電所は放射能をまき散らし、新しい抗うつ剤が次々開発されてもうつ病患者は増え続け、日本の自殺者数は東日本大震災の犠牲者数をはるかにしのぐ年間3万人の高水準を10年にわたって更新中である。
これらすべてに共通するキーワードは「想定外」で、人間の『理性』が「想定」し得るものがいかに貧弱なものに過ぎないかということが、誰の目にもわかるようになってきている。
著者は主に青年期以降の成人の心の問題について、精神療法を行なう精神科医である。東北大学医学部時代に音楽理論や作曲法の個人教授を受け、大学卒業後に病院勤務を経て、渡仏し、パリ・エコールノルマル音楽院に留学。現在は、泉谷クリニック院長を務める傍ら、舞台演出や作曲家としても活躍中である。
近年、発達障害の一種である成人のアスペルガー症候群やうつ病の患者は、増加の一途をたどっている。しかし、科学がどんなに発達しても、クスリに心の歴史を変える力はない。
『理性』は限定的に有用なツールに過ぎず、『理性』で扱えないもの、扱うべきでないものがこの世界には無数に存在している。ここに本書の出発点がある。
我々人間は、大自然から生まれた動物の一種に過ぎない。動物であれば、野性的叡智である「即興性」や『野性』の力強さを充分備えていなければ、生存し続けることができない。このような観点から見れば、現代教育は完全に倒錯したものであり、「種」としての自殺行為に等しいと著者は警鐘を鳴らす。
本書では、サル(猿知恵、猿真似、モンキービジネス等表面的で姑息な頭の使い方をする象徴)とオオカミを比較、わかりやすく解説している。オオカミは宗教的な問題で欧州では悪魔の化身と考えられてきたが、類人猿の持つ優れた知能の核心の裏にある邪悪な「陰謀」や「騙し」は、オオカミの群内には存在しない。
サル的な価値観では、"効率"や"安全"が最も価値あるものと考えられている。教育でも、良質な指導陣に導かれ、「自分自身で考えなくてよい」(思考停止)という安楽さや、ある程度保証されたレールが敷かれていることはとても魅力だ。逆に、オオカミ的な「情熱」や「野性」は、不快に感じるのが一般である。
本当にそれでいいのだろうか。東日本大震災や福島原発事故の例を出すまでもなく、我々を取り巻く大自然は、人間の手前勝手な予定や計画を一切受け付けてくれないのだ。
真の思考とは、何が起こるかわからない不安に備えてあらかじめ準備を行なったり「想定」したりするのでなく、何が起ころうとも瞬時に最良の方策を導き出せるような即興性に満ちた「生きた」思考のことである。
そのためには、我々は、自己の"内なるオオカミ"を去勢することなく、"オオカミ"とじっくり対話してみる必要がある。そして、オオカミの『野性』を備えた自分をそのまま愛することだ。元来、人間は機械とはまったく異なり、「心」という野性的原理を備えた存在である。心は、原理的に、合理性や必然性とは無縁なものだ。去勢されてしまった例として、保護者同伴の入学式、卒業式、会社説明会、入社式、新婚旅行が載っているのが面白い。
日本人は、元来この種のメッセージを受け取るのが苦手で、故意に避けてきた傾向がある。しかし、今こそ、多くの読者に著者の熱いメッセージを受け取ってほしいと思う。
<プロフィール>
三好 老師 (みよしろうし)
ジャーナリスト、コラムニスト。専門は、社会人教育、学校教育問題。日中文化にも造詣が深く、在日中国人のキャリア事情に精通。日中の新聞、雑誌に執筆、講演、座談会などマルチに活動中。
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