後半は、伝説の編集者 丸山昭氏(元講談社「少女クラブ」編集長)を囲み、トキワ荘の語り部小出幹雄氏の進行のもと、水野氏、山内氏も参加して和気あいあいとトークが進められた。
丸山氏の話を聞いていると、「トキワ荘」は"成功すべくして成功した"プロジェクトと言える。そのポイントは以下の3つだ。
<自由にマンガの話ができるオアシスであった!>
1つ目は、昭和の「焚書坑儒」である。トキワ荘ができた1950年代と言えば、「俗悪マンガ・悪書追放」運動が世のなかに吹き荒れていた時代である。「マンガは児童に害悪を与えるものである。マンガを掲載した図書は悪書であり、追放すべきである」と言われた。丸山氏が担当の「少女クラブ」(月刊)でも、三百数十ページのうち、マンガはわずか数十ページであった。「売らない、買わない、読ませない」という標語さえ生まれた。
大きな声で「マンガが好きだ」とか「マンガを書いている」などと言えない時代であった。しかし、トキワ荘の2Fだけは、自由に、誰にも気兼ねせずに、マンガの話ができるオアシスであり、必然的にそこに優秀なマンガ人材が全国から参集したのである。
<読者と波長の合う若いマンガ家を時代が要請!>
2つ目は、1950年代は、ちょうど戦前マンガ家から新しい世代のマンガ家へ交代する過渡期であったことだ。当時、マンガ家と言えば全員と言っても過言でないほど男性で、しかも戦前から描いてきている人たちであった。丸山氏が担当した「少女クラブ」でさえ、作家、マンガ家は長谷川町子氏を除くと全員男性の時もあった。したがって、女性に求めるイメージも必然的に、"良妻賢母"的なもので、読者とはだんだん波長が合わなくなってきていたのである。読者と波長の合う、高校を卒業したぐらいの年齢の若いマンガ家、女性のマンガ家が待望されていたのである。トキワ荘に集まってきた若いマンガ家志望の青年、少女たちがデビューし易い環境が整っていた。
<加藤謙一「少年クラブ」伝説の名編集長!>
3つ目は一番重要な点で、トキワ荘に、自然発生的に優秀なマンガ家志望者が集まってきたわけではないということである。そこには、丸山昭氏の大先輩である加藤謙一氏の存在がある。加藤氏は、「少年クラブ」(講談社)の名編集長であり編集の神様と言われていた人物であるが、戦後米軍の占領政策で公職追放になった。そこで、講談社を一時退社(その後、顧問として戻る)して、夫人名義で学童社を設立、1948年に「漫画少年」を創刊したのだ。
「漫画少年」には、「少年クラブ」を通じて、加藤氏の育てた当時の一流作家、吉川英治、佐藤紅緑、長谷川町子などが挙って書いた。そして、この加藤氏が漫画をとても重視したのである。当時の一流漫画家の作品も載せたが、それ以上に全国の漫画家を志す、少年や少女にページを開放し、どんどん投稿させ、優秀、佳作などと評価、入選者の名前を載せた。
当時、そんな雑誌はどこにもなかったので、腕に自信のある優秀な若者たちが投稿してきた。
そのなかには、漫画家にならなくても、その後大活躍をする、小松左京、横尾忠則、篠山紀信、眉村卓、平井和正、筒井康隆、黒田征太郎、和田誠、水野良太郎などが含まれている。
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