<当初、福岡で設立>
スカイネットアジア航空(株)(本社:宮崎市、高橋洋社長)の2013年3月期における営業収入(売上高)は300億円に達し、経常利益18億円をあげた(決算書別途添付を参照)。産業再生機構に支援を申請したのが04年6月であり、企業再生の完了に漕ぎつけたのが、06年12月である。それから7年が経過して、ようやく経営の安定飛行へのメドがつくまでになった。13年3月期は6期連続黒字を出して、累積赤字を一掃したのである。
現在、保有機15機で、東京―宮崎、東京―熊本、東京―鹿児島、東京―大分、東京―長崎、宮崎―沖縄、鹿児島―沖縄の間で就航していたが、今年6月1日より神戸―沖縄便も開設された。まさしく宮崎(―東京、1日に7往復、14便)を軸とした、九州各飛行場と東京間の空路ネットワークを築いてきたことが、再生の要因となった。
もともとスカイネットアジア航空は、1997年7月にパンアジア航空(株)の商号で福岡にて設立された。この事実を記憶しているのは、関係者以外には希少であろう。97年当時、JAL、ANAの二大勢力の航空業界に、新規参入のブームが起きていた。パンアジア航空は、スカイマーク(SKY)、北海道国際航空(ADO)に次ぐ新規3番手の航空会社として設立されたものだ。スタート時期には、非常に注目を受けていた。
商号の通りに「アジア(の玄関・福岡)から新規航空会社による飛行機を飛ばそう!!」というスローガンに、福岡の経営者たちが浮かれて出資した。そののぼせ者たちの旗振り人の中心役が、お仏壇のはせがわの長谷川裕一社長(当時)であった。
しかし残念ながら、熱意だけの素人集団では、飛行機を飛ばしてその経営を維持することは不可能であった。そのため、「福岡からアジアへ」のロマンは、あえなく挫折してしまう。活路を見出すために、2 000年9月に同社は本社を宮崎市に移転してしまったのである。オサラバ!!福岡だ。
<やはりプロでないとダーメ、漁夫の利を得たANA>
宮崎でも熱心な歓待を受けた。地元の企業も、出資に積極的に応じてくれた。別紙にある大株主名簿にある米良電機産業(株)は、6.72%の株を有している。前述した04年6月の産業再生機構に支援を申請したときには、手持ちの株を減資させられた。この会社の例に見られるように、地元企業も熱烈歓迎支援をしたのであるが、やはり素人集団では経営の壁は厚かった。ここはプロ集団を招くことでしか、再生の可能性の道は残されていなかった。
再生を可能にしたファクターは、大きく2つある。日本政策投資銀行の資金援助とANAの蓄積力である。
まず再生するにあたって、大口株主の減資を強行したうえで、日本政策投資銀行が増資と融資に協力した。また、国内路線では最大規模を誇るANAにも、出資を要請した。同社から、経営幹部の派遣もお願いしたのだ。さらにANAの政治力も有効活用した。
そのおかげで、2年半という短期間で再生の目鼻をつけた。前述した通りの6期連続黒字決算を果たした。
業界にベンチャー魂を持って新参しても破綻する例が続出するなかで、スカイネットアジア航空は、ANAの傍系として安定飛行の一歩手前まで到達したのである。
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